− 日本史 −


0001 「史学科の一時代」
 

 日本の大陸侵攻が泥沼化して先が見えない状態となり、ひとり軍部が強権を振るっていた時代、(何か今のアメリカ、イギリスのイラクへの軍事行動と同じ様相と見えるが、)早稲田大学文学部史学科には特高の眼が光っていたようだった。学生であった筆者にもそれがひしひしと感じられた。教室のドアの陰、廊下の隅、史学科の教授、学生の集まりのある喫茶店のカーテンの陰、いつも何か眼が光っていた。津田左右吉先生の「神話の研究」が問題とされ、それを出版した岩波書店の岩波茂雄氏、共に治安維持法の対象とされていた。昭和15年(1940)は皇紀2600年ということになっていた。神武天皇の東征とそれによる日本の統一、大和朝廷成立の年が昭和15年から2600年前であるとされていた。然し、史学界では魏志倭人伝、漢書等を主たる史料とする研究により、大和朝廷の成立は、600〜800年程遅い年代であると言う結果が出されていた。若し大和朝廷成立をもって紀元元年とするならば皇紀は2600年より短いという事である。それは皇紀が間違いであるということで、国体の尊厳を傷つけると軍、右翼は決め付けてきたのである。史学科の学生としては、国家権力で紀元2600年を信ぜよと言われても、そうはいかない。早稲田大学は建学の頃から在野精神があった、それに学問的に正しさは追求されねばならないのは当然である。軍国主義・全体主義の時代であろうとも、学問は政治権力の奴隷ではない。尤も、皇国史観と称して時の軍部、政府に足並みを揃える学者も居た。その頂点が東京帝国大学文学部史学科の平泉澄教授であった。帝国大学の史学科機関誌「史学雑誌」と早稲田大学(史観)、立教大学(史苑)、慶応義塾(三田史学)の発行する史学誌が論戦を繰り広げていた。私学系の雑誌は外圧のため、発行も難しくなりつつあった。然し、早稲田大学にも神道系の思想を持つ教授もあり、その人は平泉教授とは異なった基盤から帝国の歴史を述べていた。思想的圧迫は、学問の自由、「学の独立」を標榜する教室に、何ともいえぬ暗さを齎した。それでも花見教授は、「此処はノートを取らないで下さい。」と言って授業を続けられたし、京口元吉教授は「天皇と言っても、それは豪族の末であり、成れの果てである。」と言い続けた。学生である筆者の家にも特高の刑事が来て、本棚をひっくり返したり、ノートを点検したりしていったし、戸塚警察署に二晩留置されたりもした。何等学問的基礎もない特高の刑事に魏志倭人伝、漢書を示して理解させようとしても無理であった。彼等は上からの指令に従って教条主義的発言と押し付けを繰り返すのみで、それは仕方の無いことであった。戦後は軍国主義の反動化が見られ、これまた目を覆いたくなるような、進歩的であると自称する学者、或いは評論家と称する時流に乗る輩が我がもの顔の発言をし、ジャーナリズムもこれに乗ったのであった。歴史は振り子のような運動を繰り返すのだろうか。



 
0002 「書き替えられる歴史」  

 それまで知られていなかった歴史が、新たな発見、研究によって歴史の書替えが行なわれる場合がある。例えば古代史でいえば、西アジアやエジプト、つまりオリエントと呼ばれる地域に就いての、十九世紀後半に始まる研究の成果の場合であろう。それと一方国家や宗教が歴史をどのように利用してきたか、という問題と関わってくる場合とがある。歴史を纏める場合、過去のことを記録しておきたいという素直な動機も確かにあるだろう。然し、国家や宗教の支配層に属する公的機関が歴史を纏める場合、そこに自分達の支配体制を歴史的に肯定しようという意図がしばしば一本の筋となって貫かれる。つまり、自分達が君臨しているのは偶然のことではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他ともに示したい動機が潜んでいるのである。とすれば、どうしても、自分達に 都合の悪いことはタブーとしてなるべく書かないし、実際になかったことでも書きたくなるであろう。従って、自分達に都合の悪い事実を明らかにする者が出ると、世を惑わす者として処罰するといったことも起こってくる。そして、此等の支配体制が変革を受けると、忽ち歴史が書き替えられるのである。このような「歴史」のありかたは、古今東西に共通してみられることである。今わが国の成立に就いての神話、説話を振り返り、天孫民族の伝えを見てみたいと考える。嘗ての皇国史観が述べたような天皇は神聖にして侵すべからず的な国体護持論の支えの為の思想ではなく、他方、進歩的歴史観が述べた徒な民族の誇りを傷つける学説が取ったような姿勢もとりたくない。日本における神話は、この地に生を受けた人々の歩んだ跡を反映した説話であり、歴史事実の古代的反映の叙述であったと考えたい。天孫降臨の神話は天孫民族の九州地方からの勢力拡張の物語であり、神武天皇の東征は九州地方の豪族を支配化に収めた天孫族の東方への勢力拡大の物語であり、更に大国主命の神話は、天孫族と出雲民族との関係を述べた説話と考えたい。



 
0003 「大和の国の始めに就いて」  

 古事記の記載をあげて、それから考えてみよう。

  別天つ神五柱
天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。
次に国稚く浮きし脂の如くして、海月なす漂へる時、葦牙の如く萌え騰る物によりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神。次に天之常立神。この二柱の神もまた、独神と成りまして、身を隠したまひき。
  上の件の五柱の神は、別天つ神。

  神世七代
次に成れる神の名は、国之常立神。次に豊雲野神。この二柱の神もまた独神と成りまして、身を隠したまひき。
次に成れる神の名は宇比地爾神、次に妹須比智爾神、次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神。次に妹伊邪那美神。上の件の国之常立神以下、伊邪那美神以前を、并せて神世七代と称ふ。


 第二次世界大戦が終わるまで「神話から歴史へ」といったテーマを、公然と言ったり書いたりすることは、非常に困難であった。日本の成立を記した二つの貴重な文献、『古事記』と『日本書紀』を論じようとすれば、その中心にある皇室の祖先に言及せざるを得ない。明治憲法では、「天皇は神聖にして侵すべからず」とされているので、このタブーに触れることなしに議論することは不可能だからである。
 津田左右吉早稲田大学教授は日本及び東洋の思想史研究に広く且つ大きな業績を残した学者であるが、彼の著書「神代史の新しい研究」、「古事記及び日本書紀の新研究」が、1940年(昭和15年)に問題となり、所謂津田事件となった。この二つの本は、古くから神典とされていた『古事記』と『日本書紀』がどのようにして出来上がったのか、つまり、記紀の文献的批判をおこなったものである。津田博士の明らかにしたのは次の諸点であった。
 古事記と日本書紀の基礎になったのは、皇室系図である「帝紀」と、宮廷でつくられ、又は伝わってきた色々の物語である「旧辞」からなっていること。帝紀と旧辞がつくられたのは六世紀の継体・・・欽明朝頃のことであること。帝紀に書かれている総てのことが古くからの言い伝えではなく、四世紀末の応神天皇より以前は史実かどうか疑わしいこと。そして旧辞の、特に神話の部分は、六世紀という時期の宮廷が、天皇は悠久の昔からこの国土を治めていたことを説くために述作したものであって民族とともに伝わってきた歴史の伝承ではないこと、等であった。
 津田教授が発行した著作は、・・・・・1913年(大正2年)と1919年(大正8年)・・・・・多くの学者が抱いていた常識的見解を鋭い直観力と実証的な手続きで具体的に、しかも綿密に跡付けたものであった。而も、学者を相手とした純粋に学問的な労作であったから、出版されても、特に是れを政治的問題として取り上げる者はなかった。     
 津田教授の二つの著作は、著者が意図したかしないかには拘らず、神典を対象として歴史学的真実を追求したものであり、天皇を絶対者として国家及び国民教育の基本として据えた明治憲法における体制のもつ教学の核心に、鋭い学問的メスを入れたものであった。従って、津田教授のこの業績を部分的に受け継ぐ学者は多かったが、肝心のところを公にすることは憚られた。やがて、旧憲法を利用して台頭した軍部や右翼勢力の運動が著しくなると、彼等の間に、津田教授の著作は皇室の尊厳を犯すものだという批判の声が高まってきた。
 自由主義的な言論に対する圧迫が強くなったのは1931年(昭和6 年)の満州事変からであった。先ず1933年(昭和8年)には、京都帝国大学教授滝川幸辰氏が自由主義的刑法学説のために休職処分を受け、1935年(昭和10年)には東京帝国大学教授美濃部達吉氏が天皇機関説と言われる憲法学説のために教壇を追われた。こうして、国体に違反するという件で、自由主義的な学説を次々と槍玉に挙げてきた超国家主義勢力は、1940年(昭和15年)、津田氏の著作もまた、皇室の尊厳を冒涜するものとして、津田氏及び氏の著作を新たに纏めて出版した岩波茂雄氏を公訴した。
 第二次世界大戦の終結とともに、天皇は自ら、その神権を否定され、新憲法は、主権は国民にあり、天皇はその統合の象徴であると規定した。ここには、連合国軍の指示もあったが、多くの自由主義者の声に応えたものであり、同時に、日本の古来の天皇の伝統を発展的に受け継いだものと言ってよいと思う。こうして、新しい日本が誕生すると、旧来のタブーは解かれ、日本の太古の歴史を公然と論議することも、全く自由に出来るようになった。
 古事記、日本書紀、帝紀、旧辞等を基にして、日本の成立を考えてゆかねばならないが、記紀成立の過程、事情を配慮することは勿論、伝承・伝説の他地域との影響のありかた、そして、伝承・伝説と歴史事実との振り分け等、多くの解決しなければならない問題点がある。日本の神話にしても、大きく分けて高天原神話と出雲神話とがあり、その成立、関わりに就いては、問題を抱えている。



 
0004 「豊葦原瑞穂国」  

 古事記に、天之御中主神以下三神について述べたのち、次のように記述は続いている。
 「天地のわかれたとき、まだ土壌は泥土のように固まっていなかった。このとき、葦芽のようなものが勢いよく萌え出でて、それが化成して国常立尊など三柱の神となった」と説いている。「国」は国土・大地と言う意味であり、「常立」とは、恒久化し、定立することであるから、この話が言おうとしているのは「泥土のような土壌がやがて固まって大地となった」という事である。この事を、国常立尊という神格の化成という発想で表しているのである。この創造神話と似た神話が南太平洋の島々に広く分布しているとの指摘には深い関心を寄せざるにはいられない。例えば、ニュ−ジ−ランドのマオリ族には、こんな言い伝えがある。
 「原始にポ−と呼ぶ虚無、或いは混沌があって、光も熱もなく、形相も運動もなかった。暗黒の内部で微かな動揺がだんだん始まり、呻き声と囁きの声がおこり、そこで始めて曙のように微かではあるが、光明があらわれ、日中になるまで成長した。次に熱と湿気が展開し、諸元素の相互作用によって実体と形相が現われ、段々具体的になっていって、しまいには確固たる大地とア−チ型をした天とが形を整え、天父と地母という人間の形をとるようになった」
 この種の、南太平洋の神話と同系統の神話が、低湿地の水稲農業を営む日本人の間で、「豊葦原瑞穂国」として国土形成の思想を生んだとみるのは、行きすぎであろうか。



 
0005 「淤能碁呂島」  

 古事記・日本書紀には、この創造神話の次に、もう一つの国土形成の神話が記されている。伊邪那岐(男神)・伊邪那美(女神)による「国生み」の話がそれである。
 これは土壌が固成してゆくことを神格化したものであるが、この国生み神話で生まれてくるのは、本州・四国・九州その他の「大八州国」であり、それは大和朝廷の支配する政治的な国土の誕生である。
 また、伊邪那岐・伊邪那美の二神が国土と山川草木の神々を生んだ後には、天照大御神ら三柱の神々が生まれるのであって、この国生み神話は、政治的な国土と、その国土を支配する大和朝廷の祖神を生む神話なのである。



 
0006 「島釣り神話」  

 政治的国土や政治的君主の出現の神話化は、どのような形ででも表現出来た筈である。ところが、それを男女二神の国生みという発想で表現したのは何故だろうか。このタイプの神話が南太平洋の島々や東南アジアに広がっているという事実を見逃すわけには行かない。
 ポリネシアのマルケサス島では、ティキと言う神がカヌ−に乗って、大洋の底から地を釣り上げる話が伝わっており、ニュ−ジ−ランドでは、英雄神マウイが釣針で海中から大きな魚のような陸地を釣り上げたという伝説を伝えている。この種「島釣り神話」は多くのポリネシア諸島をはじめ、メラネシア、ミクロネシアの島々でも広がっている。



 

0007 「大国主神」  

 出雲神話には大国主神という英雄がいる。この神は、元来、大穴牟遅神であって、大国主神と言う名は神代史の作家の命名であるらしい。語幹の「穴」は土地の意味であると言われている。その物語は少し長いが大要を記しておく。
 大国主神の兄弟は八十神(大勢の神々)であったが、彼等は大国主神に国を譲って退いた。それは次のような事情からであった。
 或る日、八十神達は、各々八上比売(八上は地名。鳥取県八頭郡内)を妻にしようと思い、大穴牟遅神に袋を負わせ、稲羽(因旛)に向かう途中、気多の海岸で裸の兎を見つけた。この兎は淤岐(隠岐か沖か不明)島に住んでいたが、この地に渡ろうとして和爾(鰐鮫)を騙したので衣服(毛皮のこと)を剥がれたのであった。八十神は兎を哀れまず、却ってこれを苛めたが、大穴牟遅神は、傷をなおす方法を教えてやったので兎はもとの体になった。
 八上比売は、大穴牟遅神の妻となる意志を八十神に明らかにしたので、八十神は大穴牟遅を殺そうと計り、伯伎(伯耆)で赤猪狩に誘い、火で焼いた大石を猪に見せ掛けて追いおとしたので、大穴牟遅神は死んでしまった。泣き悲しんだ母の御祖命は、天上の神産巣日神に請願した。そこで神産巣日神は、蛤貝比売ほかを遣わして薬を作らせたので大穴牟遅は生き返った。
 八十神は更に、大穴牟遅神を山に誘い、大木の割れ目に騙し入れて押し潰した。この時も大穴牟遅神は命を失ったが、御祖命が死体を探しだして治療して生き返らせた。御祖命は、また凶事が起こるのをおそれて、木国(紀伊の国)の大屋毘古神のもとに避難させた。然し八十神はそこへも追ってきたので、大屋毘古神は須佐之男命の居る根之堅州国に大穴牟遅神を遣わした。大穴牟遅神が須佐之男命のもとに行くと、女(ムスメ)の須勢理毘売に会った。二人は直ちにまぐわいした。姫が「いと麗しき神来ましつ」と父に報告すると、大神(須佐之男命のこと)は出てみて「これこそ葦原色許男ぞ」と讃えた。
 大神は、大穴牟遅神に数々の試練を与えた。蛇の室に寝かせたり、呉公(ムカデ)と蜂の室に寝かせたり、鳴鏑を大野のなかに射入れてその矢を取ってこいと命じ、周りから火をつけたりした。然し、大穴牟遅神は、其の都度、妻の須勢理毘売や鼠の知恵で助かった。大神は大穴牟遅神を家に連れ帰り、今度は自分の頭に巣食う蝨をとれと命じた。見るとそれは呉公であった。やがて大神が眠りに入ると大穴牟遅神は、その隙を狙って大神の生太刀と生弓矢と天詔琴(神がかりの時に使う琴)を奪い、須勢理毘売を背負って逃げだした。その時、詔琴が樹に触れて地も轟に鳴ったので、大神は目を覚まし大穴牟遅神を追い掛けた。然し、黄泉比良坂まで逃げのびると、ついに及ばなくなった。この時、大神は大穴牟遅神を讃えて「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもって、汝が庶兄弟をば坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、大国主神となり、また、うつし国玉の神となり、わが女の須勢理毘売を嫡妻(正妻)として、宇迦能山の山本に底津石根(地底の岩)に宮柱ふとしり(宮殿の柱をどっしりと据え)高天原に氷椽高しりて(天空高く千木をたて)居よ。是奴(こいつめ)」と讃えた。こうして大穴牟遅神は国をつくることになった。
 大国主神が、出雲の御大(島根県美保か)の崎にいたとき、波の穂をわけ天羅摩船(羅摩は蔓草)に乗り、鵝の皮の衣を着てやってきた神があった。それは神産巣日神の子の少名毘古那神で、「汝、葦原色許男命と、兄弟としてその国(葦原中国のこと)を作り堅めよ」との命に従ってやって来たのである。この神は「事毎に天の下の事を知れる神」であった。大国主神と少名毘古那神は二人してこの国を作り堅めた。後に少名毘古那神は、海を渡って常世国にいったので、大国主神は「いずれの神とともに国づくりをしたらよいのか」と憂えたが、この時、御諸山(奈良県三輪山)の神が、海を照らして現われ、「相作り成さむ」といった。



 
0008 「民間伝承のよりわけ」  

 この古事記による大国主神の話は、日本書紀には殆ど記されていない。僅かに第六の一書に、国づくりの一部分が見えるだけである。大国主神の物語を構成する三つの要素のうちの二つは、出雲と密接な関係があり、其の地の民間伝承とみられるが、では、大国主神の国づくりが出雲の国づくりではなく、日本の国土そのものの国づくりになっているし、政治的臭いが濃厚である。 何故なら、ここでは国土平定、乃至は統治ということを意味する『その国を作り堅めよ』という言葉が用いられ、日本書紀の第六の一書でも『天下を治める』という語が用いてある。従って、大国主神の説話と大和朝廷説話とは成立の違うもので、大国主神の説話は出雲人の作ったものであると考えられるが、少名毘古那神の説話、大和朝廷の出雲併合を戦争という手段に訴えることなく行なったことを国家的な立場で大和朝廷の人が加えたものであろう。
 「旧辞」は六世紀に成ったのだが、その「旧辞」に出雲伝承が取り入れられたのは、この段階、即ち、天武朝の「帝紀」「旧辞」の整理の仕事の段階においてであったろう。685年(天武拾四 年)には、詔して、諸国の歌男・歌女らにその伝来の歌笛を子孫に伝えさせた、と言うことがあって、天武朝には、地方の伝承の保存に意を注がれた。出雲神話の物語は、こうした天武朝の空気のなかで、出雲から吸収され、神代史のなかに位置づけられたのであろう。
 大国主神の物語のうちで、八十神によって虐待され、幾度も死んだり生き返ったりする部分と、須勢理毘売を妻にしようとし、父の須佐之男命から数々の試練を受ける部分とが、出雲土着の伝承であることは、以上によって明らかであろう。それでは、此等の話はどのような意味をもつのであろうか。
 この神話は一面において恋の物語であり、他面においては試練の物語である。何故この二つの要素が一つに結合したのか、という疑問にうまく答えてくれる解釈の一つは、服役婚説とも言うべきものである。服役婚は労役婚或いは労働婚ともいうが、結婚に先立って花婿が花嫁の実家に住み込んで一定期間働く習俗で、世界的に広く分布している。日本の周辺では東南アジア・東北シベリアに多い。 アイヌの民俗研究者として名高い金田一京助氏は、アイヌ人の伝承「オイナ」の一つに、大国主神の求婚と同じような説話のあることを挙げて、「何が故に、英雄の求婚がこの旅行を必要とするのであろうか。それは、一般神話学の問題で、ただアイヌだけの事でないから、アイヌ土俗からだけの説明では不十分であろうけれど、幾多のアイヌ説話を比較するときに、朧気ながら、其の鍵を見いだすことが出来るように思う。一言で言えば、それは、所謂労働婚の土俗が説話の上にその影を落としたものではなかったろうかということである」と述べている。この神話における恋と試練の結合については、未開社会に多く見られる「成年式」(Initiation.)との関係を重視する学説もある。
 服役婚と成年式という二つの考え方は、ともにこの大国主神の神話の本質的に重要な点を明らかにしてくれたものであるが、もう一つ、この物語で見逃してはならないことは、恋と試練の二つの要素の他に、国の支配者としての第三の要素が不可分に結びついていることである。それは「大国主神にたいして八十神が国を譲った事情は」と言う書出しで始まり、須佐之男命が言う「これこそ色許男ぞ」の賛嘆の言葉で終わっていること、また、試練を潜り抜けた大穴牟遅神にたいして、須佐之男命は「大国主神」の名を与え、「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽高しりて居よ」と命じて話が終わっていることからも分かる。
 更に大穴牟遅神と言う名それ自身が、出雲と言う「国土の霊」と言う意味であることを念頭に置けば、この物語は、試練といってもただの試練ではなく、出雲の国の王となる試練の話なのではないだろうか。
 王者となるには、血統の貴さよりも、如何なる試練にも耐えぬくことが重要であった。大国主神が、何度も殺されたことは、その殺された数だけ偉大であることを示している。死んでまた再生するという観念は、未開社会の成年式にしばしば見られるばかりでなく、アフリカから東アジアに至る古代文明や原始王国における王者の即位儀式においても、再生は最も基本的な観念であった。
 今ここに、大国主神の話の最も中核にある実質を読み取りたい。大地または水の霊である大蛇を殺して、その地の女を娶って国土の支配者となった須佐之男命と、この大国主神とは、相補って一つのタイプの王者観、高天原系のそれとは全く違った逞しい王者観を示していると思う。



 
0009 「国譲り物語」  

 怪物を退治し、数々の試練に耐えた須佐之男命と大国主神とは、真に王者としての資格を備えていた。然し、神代史に表された両者の共通性は、次の点にもあった。それは二人とも高天原に対する敗北者だったことである。須佐之男命が天津罪によって高天原から追放され、大国主神も、高天原の送る将軍達の圧力によって、折角得た国土の支配権を返上するのである。この大国主神の支配権の返上、所謂「国譲り」は、古事記では、次のように物語られている。
天照大神は「豊葦原の瑞穂国は、わが子天忍穂耳命の知らさむ国(支配すべき国)である」として、彼をこの国土に遣わすこととした。然し、命が天浮橋に立って下界を眺めると、下界には荒振る国津神達がいて、非常に騒がしい状態であった。
 そこで高御産巣日神と天照大神の命により、八百万の神々は天の安河の河原に神集いして、思金神の知恵で、将軍を下界に遣わして言趣(説き伏せること)させることにした。そして先ず天菩比神が遣わされたが、この神は大国主神に媚びつき三年たっても復奏しなかった。
 高天原の神々は、そこで天若日子に弓矢を賜って言趣させた。然しこの神も、八年たっても復奏しなかったので、神々は鳴女という雉を遣わした。ところが、天若日子は「その鳴く音いと悪し」と言って矢を放って雉を射殺してしまった。しかも其の矢は雉の胸を貫通して高天原にまで達した。高木神が其の矢を取って地上に放つと、眠っていた天若日子に当たった。天若日子の弔いの日、阿遅志貴高日子根神が参会したが、この神は死んだ天若日子と顔形がよく似ていた。天若日子の一族は、生き返ったのかと其の手足をとって喜ぶと、高日子根神は怒って十掬剣を抜き、喪屋を切り倒し、蹴飛ばしてしまった。其の喪屋は美濃国の喪山となった。
 高天原の神々は、三度目に建御雷之男神を下界に送った。この神は、出雲の伊奈佐の浜(出雲大社付近の浜か)に降りたち、十掬剣を突き立てて、「汝がうしはける(占有している)葦原中国は御子の知らさむ国である」と宣言した。この時、大国主神の子事代主神は、たまたま魚釣りに出掛けていたが、帰ってきて国土の返上を承知し、乗ってきた船を踏みかたぶけ、青柴垣に身を隠した。一方、もう一人の子の建御名方神は承知せず、建御雷之男神に力競べを迫ったが、結局かなわないので、科野国(信濃)の州羽(諏訪)の海まで逃げたあげく帰順した。そこで大国主神も国土の返上を誓うこととなった。建御雷之男神は、多芸志の小浜に天御舎を造って大国主神を祭り、国土平定の終わったことを高天原に報告した。
 この国譲りの物語の一つの問題点は、天照大御神が天忍穂耳命を下界に下そうとしたとき、下界は「いたくさやぎてありけり」(非常に騒がしい状態であった)と述べておきながら、将軍達の平定は下界一般ではなく、出雲と言う特定の地方であったことである。この事は国譲り物語の後にくる「天孫降臨」の物語で、いよいよ天忍穂耳命の子を地上に降ろすとき、其の地点が出雲でなく日向であったとされていることとあいまって、神代史の構想それ自身として、大きな矛盾を侵しているといえる。
 また、物語の筋道として、出雲の平定が終わると皇孫が日向に降るというのも、矛盾といえば矛盾であるが、仮に、出雲に非常に大きな敵対勢力があったとすれば、先ず其処を平定するのは自然のことであり、また、その敵対勢力を平定したのち、その勢力の根拠地に天降りしなければならないという必然性もない。
 そればかりではなく、天孫が何の抵抗もなく地上に天降りするというのは、日本神話のあり方として、あまりに平板である。日本神話における神の観念が、常に「穢れの後の生命」「死の後の生」という発想をとっていることは先に述べた通りである。従って、天孫の降臨には、それに先立って地上勢力の抵抗がなくてはならず、そこに出雲との対立を置くのは自然なことである。だから、「旧辞」が作られた始めから、出雲平定の構想は含まれており、そして、その頃より以前、あまり遠くない頃に、出雲が大和朝廷にとって大きな敵対勢力であったためであると理解したい。
 それなら、大和と出雲との関係は歴史的にどんなものであったろうか。残念なことに、それを示す記録は一つも残されていないのだが、間接的な証拠として見逃してはならないのは、遅くとも奈良時代に、出雲の国造だけがその就任の時毎に朝廷に参向して、一種の儀礼を行い、言わば服属の誓詞ともいうべき賀詞を奉る習いのあったことである。その事実は当時の国史である『続日本紀』にも記され、またその賀詞は「出雲国造神賀詞」と言う名で『延喜式』に記されている。それは、出雲臣の祖の天穂日命が、高天原の使いとして出雲に降ったのち、更に布都怒志命が遣わされたとき、国を造った大穴牟遅命(大国主神)が「大倭国」を讃え、子孫の神々を天皇家の守り神として奉って、自らは杵築宮に身を隠したという神代の物語を述べ、更に「天穂日命の命のままに、天皇家の臣として神宝を献り、神賀の吉詞を申し上げます」と言う全面的服従の言葉であった。
 大化の改新(645年)以前、大和朝廷は、国造という地方の大勢力を通じて、日本全土を支配していた。国造は「国造本紀」に126程 あげてある。もっともこの本が、大化以前の国造の様子を正しく伝えているかどうか、大いに疑わしいが、中国の史書の『隋書』にも大化改新直前の頃の日本には120の軍尼があったと記してある。とすると、国造は、やはりそれくらいの数にのぼっていたと考えられる。大化改新以後、大和朝廷は、半独立国のような国造の勢力を奪い、中央の権力が及ぶ国郡制に切り替えていったが、実際は国造の在地勢力は強大であったから、郡の郡司には国造の家柄の者を用いた。又、新たに国を単位として新国造という一種の神官をおいたが、これにも彼等を任命した。
 然し、こうして奈良時代まで続いた国造のなかで、出雲国造だけが、その就任毎に、右のような行事を行なっていたことは見逃しがたいことである。それは、大和朝廷の国土統一、及び国家形成の過程において、この出雲国造の勢力が大きな敵対勢力であって、これを服属させ、その祭祀権を中央に統合したことが、大和朝廷の国家形成上、重要な意味を持っていたためであろう。
 そして、この事は、なにも八世紀の奈良時代や、大化改新の行なわれた七世紀に起こったことではなく、「旧辞」の作られた六世紀よりも、更に以前の出来事であったろう。日本の神話で、出雲平定が大きな意味をしめるのは、決して偶然ではなく、それが日本の国家の成立上、言わば構造的に、重要な意味を持っていたからであろう。



 
0010 「日本民族は何処から来たか?」  

 「日本民族は、南方から来たか、北方から来たか」という問題は、古くから論じられてきた。この問題は、人類学や考古学、神話学や言語学等、いろいろな角度から論じられなければならないが、日本神話の中核である天孫降臨神話では、どうであろうか。
 この物語の核心は、「国土の支配者であるべき日の神の子が、高い峰の頂きに降下した」と言うところにあるが、このような型の話が、朝鮮から内陸アジアにかけて分布していることは、多くの学者が指摘しているところである。例えば、朝鮮の檀君神話では、
 「天の神がその子に三つの天符の印を授け、三千の徒衆を従えて 大白山の頂きにある神檀樹のもとに降って、朝鮮を開いた」
とある。また南朝鮮の韓族の新羅には、
 「聖なる亀旨の峰で酋長達の集会が行なわれていたとき、紫の縄が天から垂れてきた。縄のもとをたずねると、紅い布に包まれた金の合子があり、開いてみると、日のような黄金の卵が六つ出てきた。この卵を衾の上におくと、身の丈九尺の一人の男子と化し即位して首露王となった」
という伝説がある。此等の話は、『三国遺事』という朝鮮の古伝説を集めた本にのっているもので、前の話は「古記にいう」とあり、後の話には「駕洛国記にいう」と書いてある。
 このような、支配者が天から降りるという話は蒙古にもあり、これらの天孫降臨神話は、結局同性質のものとみる学者が多い。また日本書紀の第六の一書では「高千穂の曽褒里能邪麻に降った」としてあるが、朝鮮語では都をソホリという。また朝鮮から内陸アジアにかけての遊牧民には、五を単位とする組織が広がっている。高句麗の五部、百済の五部や五方などはそれだが、天孫降臨の物語でも五伴緒が天孫に従っている。このような北方的な特色をもつ神話の担い手、即ち皇室の祖先はアルタイ系の遊牧民の要素を強く持っているものであるとみるのである。また、北方騎馬民族が、四世紀頃日本に来襲して、天皇家のもととなったという江上波夫氏の有名な「騎馬民族説」も、その論拠の一つとしてこれと同じ見方をしている。
 然し、天孫降臨物語を、このような意味において北方的・遊牧民的とする説は、果たして妥当なのであろうか。と言うのは、この物語が神代史の構成上有している、最も重要な諸要素が、朝鮮や蒙古等北方の神話伝説に、果たして存在するかどうか問題だからである。
 例えば、第一に、天孫降臨物語では、降下するのは日神、又は日の司祭者の子孫である。「天の八重たな雲を押し分け、いつのちわきちわきて」日向の峰に降ったという降下のありさまは、日の光が雲を突き破って現われてくるという光景をあらわしていると考えられるのだが、こうした日の崇拝的要素が朝鮮や蒙古の物語にも見られるであろうか。
 第二に天孫降臨の物語においては、天降る神の名は、例えば古事記では、正しくは「天にきし国にきし天津日高日子番能爾爾芸命」というのだが、「にきし」は柔和にするという意味、「日高」は神聖なる天空、「番能爾爾芸」は稲の穂が、賑々しい状態になっているという意味で、これには、稲の豊作を中心として天上天下の調和を祝福する意が込められている。とすると、この物語は単に支配者の祖先が地上に降ってくるということだけではなく、それは、農耕、特に水稲耕作とも強く結びついているのだが、こうした要素は北方系神話にも備わっているのであろうか。
 こう考えたうえで、改めて北方起源説を振り返ってみると、次のような説が甚だ意味があると思われる。
 南朝鮮の新羅の金氏の始祖伝説として、
 「王城の西で鶏の鳴き声が聞こえたので、夜明けに行ってみると 金色の小櫃が樹に掛かっていて、その下で白い鶏が鳴いており、櫃を開けると、中から小さな男の子が現われた。これが始祖の金閼智であった」という話が『三国史記』や『三国遺事』にあるが、これは日の御子の出現を物語るものであり、また、太陽が卵の形で子を産み、或いは光とともに卵や容器が降下するというのは南朝鮮にしか見られないが、この種の思想は、台湾や北ビルマ(ミャンマ−)には分布する南方的要素の信仰であろう。新羅の始祖説話における穀霊的要素も見逃しがたい。と言うのは、閼智は赫居世とも呼ばれ、前者は
「穀霊にいます君」、後者は「赤くいます君」を意味し、稲穂の赤らんだ色を指している点で、番能爾爾芸命と同じであると説いている。
 このように見てくると、天孫降臨神話は、「高い峰に降る」という点では北方的要素を持っているが、「日の御子の降下」と「稲」という二つの重要な点は、南方的な要素だと言うことが明らかになってくる。そして、北方遊牧民一般の伝説よりも、寧ろ、南朝鮮の伝説と強い親近性を持つものである事がわかる。これは、南方的なものと、北方的なものとが、南朝鮮で結びつき、そこから、日本に入ってきたと考えれば理解のいくところである。



 
0011 「邪馬台国の出現」  

 「魏志」の倭人伝には、末盧国・伊都国等の小国家の存在を掲げ、此等が卑弥呼を女王とする邪馬台国に属することを記し、この国の発生に関して、もとは男子をもって王となし、留まること七、八十年であったが、倭国が乱れ相攻伐すること年を経ていたので、ともに一女子を立てて王となした旨を述べている。恐らくこの時期は二世紀の終わりの頃から三世紀の初めの頃に求められるものであろう。こうして、卑弥呼は、魏の明帝の時、景初三年(239)六月に、大夫難升米等を遣わして帯方郡に至り、天子に詣でて朝貢することを求め、帯方郡太守が使いを遣わせ、送って京都に行かせ、その年十二月には親魏倭王となった。その後、続いて正始元年(240)に は 帯方郡太守の使いが詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、同じく四 年には倭王は再び使いを遣わし、八年にも使いを遣わして帯方郡に詣り、狗奴国の男王と不和であり、相攻撃する樣を説いている。続いて卑弥呼が死んだことが書かれているが、正始八年を過ぎて、そんなに遠くない時であろう。このように、二世紀の後半から三世紀の前年にわたっては、幾つかの小国家が分立し、これが一つの大きな勢力に抱擁されつつある過程、及びこの国が大陸の強大な国と交渉を続けて、その勢力を保持しようとする状勢にあったことが窺われるのである。卑弥呼の死後には、更に男王を立てても国中はこれに服せず、再び卑弥呼の宗女臺與を立てて王とするに及んで国中が定まったというが、西晉の武帝の泰始(265〜)の始めに、倭の女王が晉に朝献した記事を最後として、その後の事情については、中国の史書には何ら消息を伝えていない。この記事の倭の女王は臺與であったろうが、恐らく、このような史書の記載の欠けた三世紀の後半の頃、更に大きな変動があったものであり、この変動のなかに、後漢の末から三国時代にわたって次第に勢力を伸長した畿内を地盤とする大和朝廷の出現という、日本史上の大きな事柄が含まれているのではないだろうか。「魏志」に女王国の東、海を渡る千余里、復た国あり、皆倭種なり、とあることは、このような大和朝廷の存在を示唆するものであろう。尤も、これは邪馬台国を始めとする小国家群を主として九州に求め、此等が大和朝廷によって統一されたという前提のもとにのみ許されることであり、一部の論者のように邪馬台国を畿内と考える、別途な解釈の途もあるわけであるが、当時の東亜の状態から見ても、先に述べた考えを穏当としたい。しかも、これは今日における考古学上の知見からも、必ずしも否定されるものではない。
 二世紀前後における日本の状態に就いて、中国の史書により、このような重大な歴史事象を考えることが出来るのであるが、更に、此等の文献は、遺跡・遺物という考古学的方法による限られた資料と研究から、辛うじて知ることの出来た国内の一部の生活内容に就いても、なお新知見を得る事が出来る。尤も、此等の記事の総てをそのまま信拠することは困難であるが、なお生活習慣などに就いて、或る程度の映像を画くことは不可能ではない。次に此等を表示して、その一端を窺うことにしよう。
服装 男子は結髪し、冠帽を用いない。木綿で頭を巻く。(「布ヲ横幅 ニシテ連ネ、殆ド針デ縫イツケルコトハシナイ」ト言ッテイルカラ、男ハ殆ド裸デ腰巻キノヨウナ布ヲ巻イテイタノデアロウカ) 婦人は結髪もあり、垂髪もある。婦人の衣服は単被(ワンピ-ス)のようなもので、その中央を穿って頭を貫いて着る。
生活 冬夏生菜を食す。皆跣である。屋室を備え、父母兄弟の臥息は処を異にする。身体に朱丹を塗る。大小となく皆刺青文身する。中国に詣でる使いは皆自ら大夫と称した。文身も形式は異なり、尊卑によって差がある。食飲には高坏を用いて手食する。酒を嗜む。
生業 好んで沈没して魚蛤を捕える。禾稲(水稲ノ意)・紵・麻を植え 蚕を飼い、絹を紡ぎ、細紵(カラムシノ繊維デ織ッタ布)、緜(真綿)を産す。
産物 真珠・青玉・丹。
武器 矛・盾・木弓・竹箭・鉄鏃・骨鏃。
習慣 会同坐起に父子男女の別がない。大人に敬する所を見れば ただ手を摶って跪拝に当つ。下戸と大人と道路に相逢えば逡巡草に入る。葬制は棺あって槨がない。土を封じて冢をつくる。はじめて死するや、喪を停むること十余日。当時肉を食わない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒する。已に葬れば、家をあげて水中に詣り澡浴する。
骨を灼いて卜し、吉凶を占う。
婚姻制 大人は皆四五婦、下戸は、二三婦。婦人は淫せず、妬忌しない。
寿命 寿考。あるいは百年、あるいは八、九十年。(寿考とは命の長いこと)
社会 盗竊せず、諍訟少ない。法を犯すとき軽きものはその妻子を殺し、重きものはその門戸及び親族を滅ぼす。尊卑おのおの差序あり。相臣服するに足る。租税を収む。邸閣あり。国々に市あり。有無を交易する。



 
0012 「大和国家の成立」  

 耶麻台国の様子からも、日本に国家統一の機運が盛り上がっていたと見ることが出来るが、耶麻台国以後、5世紀の倭五王の遣使に至るまで、日本のことは中国の史書に記載せれておらず、その統一の過程についての信ずべき文献史料はない。然し、3世紀末には大和 国家が成立し、遅くとも4世紀中頃迄には、畿内を始めとして中部地方から西日本に至る国土を統一したと思われる。

 註 耶麻台国ガ大和ニアッタト考エレバ、大和国家ノ力ガ3世紀前半ニ北九州ニ及ンデイタコトニナルガ、耶麻台国ガ北九州ニアッタトスレバ、3世紀ニハマダ大和国家ノ力ハ北九州ニハ及ンデイナイコトニナル。後述スルヨウニ神話デハ、皇室ノ祖先ハ九州カラ大和ヘ東征シタトサレテイルガ、ソレヲ裏付ケルコトハ出来ナイ。

もともと大和を中心とする近畿地方は、瀬戸内海を通じて大陸の文化を摂取することも容易であり、弥生時代には銅鐸文化圏を形成して、弥生文化の一つの中心地となっていたが、中国地方から近畿地方にかけて良質の砂鉄が産出したので、鉄器の生産が進み、豊富な農機具や武器を使用して、生産力を高め軍事力を強めて、他の地方に対して優位に立つようになった。そのため大和地方には強大な豪族が数多く発生し、それが現在の皇室の祖先を戴いて、それを首長とする連合政権を形成したものであろう。
 大和国家による統一は、各地の部落国家を征服し、帰服させることによって達成された。『宋書』に収められている倭王武の上表文には、その祖先が自ら先頭に立って東は毛人(蝦夷)、西は衆夷 (熊襲)、更に海北(朝鮮)を平定したと述べている。それは誇張もあるし、4世紀末から5世紀前半の事を述べたものと考えられるが大和国家の勢力が拡大してゆくありさまを推測することは出来る。
『古事記』『日本書紀』には、崇神天皇が北陸・東海・山陰(丹波)・山陽(吉備)の四道に将軍を派遣して、これを平定したとされ、また、景行天皇の皇子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)が熊襲・蝦夷を討ったとしている。これを、そのまま事実としてみることは出来ないが、大和国家が何代にも亙って行なった国土統一の事業を、悲劇的な英雄としてヤマトタケルノミコトを象徴化し、その伝説として纏めていったものとは言えるであろう。〈白鳥処女説話の一つと考えられる〉
              
 5世紀になると、大和国家の首長(倭王)は大王と呼ばれ、その地位は明確に世襲されるようになった。大和国家は、部落国家を服属させても、多くの場合はその首長を滅ぼしてしまうことはなく、県主としてそのまま地方の行政を任せたり、中央の政治に参与させたりしたと思われる。
 〈天皇と言う語が用いられるようになるのは推古天皇(在位592〜628)の頃からで、大化改新(645)以後、固定した。天皇と言う称号には、宗教的性格が強いと言う人もいる。〉



 
0013 「朝鮮進出」  

 4世紀半ば迄には国土の略西半分を統一した大和国家は、その余勢を駆って、朝鮮半島へ進出していった。
 この頃、半島では中国の勢力が及ばなくなると、高句麗の勢力が強まり、南下を続けて313年には楽浪郡を併合し、中国王朝に代って北朝鮮を支配することになった。半島の中部・南部においても、三韓諸国の統一の気運が盛りあがり、4世紀にはいって、馬韓の諸國が百済によって統一され、百済は帯方郡も併合した。次いで辰韓は新羅に統合され、それら諸国はその存立をかけて外国勢力、漢民族の国家、日本の勢力などを絡めて争いが起こっているのである。大和朝廷の朝鮮進出は韓国民族の争いに介入した侵略戦争であったと考える。以後朝鮮半島は極東亜細亜における南北対立の場となっていった。神功皇后の遠征を始め、近くは清国と日本(日清戦争)、ロシア帝国と日本(日露戦争)、満州事変、日本の中国侵略、第二次世界戦争を経ての半島を巡っての争い、朝鮮戦争(北のソ連対南のアメリカ、国連軍と称する)等。
 世界の各民族が持つ其の生い立ちに就いての説話、神話は夫々の民族の誇りであり、支えとなってきた。それは尊重されるべきものではあるが、その神話を他者に押し付ける、或いは征服の手段にする事は厳に慎まねばならない事である。日本の支配下にあるときソウル(当時の京城)に朝鮮神社を立て、韓国の人々に強制的に参拝させたこと、姓名を日本風に改名させた事などは、韓民族の誇りを踏みにじることであり赦せない統治政策の一つであった。その発想の原点は天孫神話に基づく現人神としての天皇を認めろと言う強制に他ならない。



 
0014 「朝鮮半島、日本の関わり、進出」  

 一国に統一政権が出来、中央政権的機能を持ち出すとき、その蓄積された力は往々にして外に広がろうとする。また、権力者は外への進出を狙う、それが野心となり、侵略となり、他民族への征服となる事象が多くある。日本列島の西部での権力者は、(海道東征の説話、神武天皇の大和征服の説話)4世紀半ばまでには国土の略西半分を統一し、大和国家を作り上げ、その余勢を駆って、朝鮮半島へ進出していった。
 この頃、半島では中国の勢力が及ばなくなると、高句麗(北満州民族)の勢力が強まり、南下を続けて313年には楽浪郡を併合し、中国王朝に代わって北朝鮮を支配する事となった。半島の中部・南部においても、三韓諸国の統一の気運が強まり、4世紀に入って、馬韓の諸国が百済によって統一され、百済は帯方郡も併合した。次いで、辰韓の諸国も新羅によって統一され、ここに、半島は高句麗、百済、新羅の三国が鼎立する事となった。
 その中で弁韓だけが小国家の分立のままであったが、既に、『魏志』に、朝鮮南部に産出する鉄をめぐって、韓人と倭人が争ってこれを採ったと記されており、其の地には可成り早くから倭人が進出し、特に伽羅諸国には倭人の勢力圏が形成されていたと考えられる。4世紀半ばを過ぎると、日本は百済と交渉をもち、369年には、その要請に応じて朝鮮に出兵し、新羅を攻めるとともに、百済を従属させ、弁韓の地を平定した。大和国家は伽羅の地域を任那と呼んで支配した。垂仁天皇の時といわれる。
           
 参考 七支刀銘文
  石上(イソノカミ)神宮(奈良県)に伝えられる鉄刀で、百済王と世子が倭王のために作刀させたものと記されている。これにより369年に日本と百済との間の交渉のあったことが知られる。『日本書紀』には、葛城襲津彦が朝鮮に派遣されたとしている。

 日本の朝鮮進出はその後も続き、391(辛卯)年より404(甲辰)年にかけては、倭軍が北進して百済・新羅を破り、高句麗と戦って一時は帯方の境まで進出した。其の事は高句麗の好太王(広開土王、在位391〜412)の功績を記した好太王碑文によって知ることが出来る。〈好太王碑は、1870(明治3)年に発見され、鴨緑江北岸通溝に 建っている。〉
 このような倭の進出は、大和国家による国土統一の進展、国力の充実を示すものだが、其の結果として、南鮮の鉄資源の導入、鉄製農工具や農業土木の技術の受け入れ、技術を持った韓人獲得が行なわれ、さらに、大和国家の国力充実に役立たせた。この事は、5世紀始めに在位したと思われる応神天皇や仁徳天皇の壮大な陵墓からも推測出来る。
 〈最近、この過程については大きな疑問が投げ掛けられ、好太王碑の再調査が待たれている。〉



 
0015 「倭の五王」  

 好太王との交戦も結果的には日本の敗退に終わった。この頃、百済は日本と結んで半島に勢力を張ろうとし、新羅は高句麗の後援を受けて日本と対抗しようとしたが、5世紀になると、高句麗・新羅の力が強まってきて、日本の半島経営は思うように進まなくなった。そのためもあって、日本は当時の中国王朝と通交し、其の後盾によって半島勢力の維持・拡大を計ろうとした。『宋書』等に見られる倭の五王の遣使がそれである。
 5世紀の中国は南北朝の時代となり、北方では五胡十六国時代を経て、北魏が439年に江北を統一したが、江南では東晋が滅び、420年頃から宋・斉・梁・陳という王朝が相次いで建国された。倭五王が遣使したのは、この南朝に対してである。
 倭五王とは、讃・珍(弥)・濟・興・武のことで、それぞれ天皇の諡号や系譜から、仁徳(または履中)・反正・允恭・安康・雄略の諸天皇に比定されている。〈讃を応神天皇に当て、珍を仁徳天皇とする説もある。〉
 倭の五王の遣使は、413年から502年にかけて十数回行なわれ、其の記事は、『宋書』をはじめ『南斉書』・『梁書』等に収められているが、特に雄略天皇と考えられる武は、478年に宋の順帝に倭王 武の上奏文と言われる上奏文を奉り、「使持節都督・倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を与えられた。武は百済を加えようとして削られたが、倭王がこのような称号をしつこく求めたことは、半島経営の好転、取分け、百済を其の支配下に入れるために、中国王朝の権威を必要としたことを、まざまざと物語っている。



 
0016 「神話と伝承」  

 古代人は自らの世界観を神話として表象する。古代人にとって、神話は、自然に発生する事象を説明する科学であり、自分たちの成立を伝える歴史であり、生きる喜びや悲しみを表す文学である。或る意味では、神話は古代人の生活の総てを示すものだったとも言えよう。
 古代の日本人も神話を持っていた。それは高天原神話・出雲神話・筑紫神話の三つに分けられるが、私達に残されたのは、8世紀に 編集された『古事記』・『日本書紀』としてであり、既にその頃は天皇権も強く、天皇の神格化も始まっているから、神話は天皇を中心に纏め直され、記紀には、天皇の支配を正当化しようという政治的意図が強く滲み出ていることになった。
 神話によると、男神イザナギノミコトと女神イザナミノミコトが結婚して、日本の国土を生み、イザナミノミコトの死後、イザナギノミコトは太陽神で女神である天照大神を生み、高天原を治めさせた。天照大神は地上の国々を自分の子孫に治めさせようと考え、孫ニニギノミコトに命じ、日向の高千穂峰に天降らせた。三代の後、カムヤマトイワレヒコノミコトは東征の軍を起こし、BC.660年に大和の橿原宮で始めて天皇の位に就いて、これが第1代の神武天皇で あるとされてきた。
 神武天皇を第一代の天皇と考えることは出来ない。大和朝廷の成立を300年と仮定すると、BC.600年との間に1000年近い違いが生じ る。神武天皇はハツクニシラススメラミコトと言われているが、10代の天皇とされる崇神天皇も同じくハツクニシラススメラミコトと言われ、神祇を祀ったり、四道将軍を派遣したり、税制を整えたりしたとされる。崇神天皇は3世紀末頃の天皇と考えられ、それらの事蹟や崇神天皇陵と言われる古墳があること、文献学的な大和朝廷成立の年代とも一致するところから、崇神天皇から実在の天皇ではないかと考えられている。
 神武天皇の即位の年代は、推古天皇の頃、中国の讖緯思想に基づいて算出されたと考えられている。それによると、干支が辛酉の年には大変革があり、また、1260年毎に特に重要な事件があるとする。推古天皇9年(601)が丁度辛酉の年で、それより1260年前のB.C.660年に大変革があったと考え、その年を神武天皇即位の年としたのではないだろうか。此等の神話から、当時の習俗や思想を知ることが出来る。何よりも農耕生活との関連が密接であるが、祭(マツリ)と政(マツリゴト)が同じことだと考えられたこと、神と人間とが分離せず、系譜によって繋がっていると考えられたことなどである。当時の人々には忌み嫌うものがあり、禊や祓によって汚穢を取り除こうとした。天津罪・国津罪という観念があって、国津罪では神が嫌う特殊な病気や禁忌(タブー)を破ることが罪とされ、天津罪では農耕施設の破壊が罪とされている。



 
0017 「古墳文化」  

 3世紀末頃から7世紀後半頃まで、弥生時代の共同墓と違って、封土を高く盛り上げた高塚式古墳が各地で作られるようになった。其の時代を古墳時代と言い、古墳に示される文化を古墳文化と言われている。古墳は、その外形の形式によって、円墳・方墳・前方後円墳・上円下方墳等に分類されるが、特に前方後円墳は日本独特のもので、大和地方で発生し、大和朝廷の支配が広がるにつれて、西は日向地方から東は関東地方にまで広がっていった。
 このように、古墳は3世紀末乃至は4世紀始めから畿内を中心に発達してくるもので、丁度その頃成立した大和国家と密接な関係があるものと考えられている。古墳は皇族や豪族の墳墓であり、その築造には多くの労働力が必要であることから、古墳が地方に波及してゆくことは、地方に其のような権力を持った首長が確立し、其の首長の地位は畿内の大和国家と結ぶことによって確立したことを示すものであろう。
 4世紀(前期)の古墳は、山頂や丘陵を利用して作られ、表面を葺石で覆い、上部や周囲には土留め用として円筒埴輪を並べ、遺体の周りには形象埴輪が並べられた。埋葬には、長大な竹を割ったような形の木を刳り貫いた棺に遺体を収めて竪穴式石室で覆ったり、粘土槨を用いたりした。副葬品には、銅鏡・玉類・刀剣のような呪術的性格の強いものが多かった。
 5世紀(中期)になると、好太王碑に見られる朝鮮出兵が示すように、大和国家の西日本支配が強化され、朝鮮から鉄器や技術を導入して、農業生産力は飛躍的に高まり、大和国家の地歩も固まった。この時期には、古墳の築造も最盛期を迎え、平野に堀を回らせ、其の土を盛り上げて壮大な前方後円墳が造られるようになってきた。応神天皇陵や仁徳天皇陵と言われているのがそれである。遺体は竪穴式石室の中の長持形石棺に収められ、副葬品には、武具や武器が大量にみられ、呪術に寄り掛からないでも首長の支配権が確立したことを物語っている。斧・鍬・鎌のような鉄製農工具も多く、鉄器の石製模造品も副葬されている。葺石や埴輪などは益々盛んとなった。
 仁徳天皇陵は大阪府堺市にあり、全長475m、世界最大の規模である。盛土の量は、1人1日1m3として、1000人で1400日かかると言う。応神天皇陵(大阪府羽曳野市)は 長さは420mだが、土量はこれを上回る。この事から、この時代の天皇が如何に強大な権力を持っていたかを知ることが出来よう。
 6世紀(後期)になると、横穴式石室が造られるようになり、規模も縮小して、墳丘は石室をわずかに覆う程度のものになっていった。横穴式石室は遺体を収める玄室とそれに至る羨道とからなり、それには大陸技術の導入があったとみられる。葺石や埴輪は廃れ、副葬品にも実用的な須恵器や馬具が一般化してくる。この事は、死の国である黄泉国の感心が強まり、死者が死後の世界で生活を送る道具を副葬したことを示し、古墳が曾ての祭祀の場や権力を誇示するものではなく、死後の生活の場と考えるようになった為であるといわれている。
 古墳時代の土器には土師器と須恵器とがあった。土師器は弥生式土器の系統を引くもので、壷・甕・高杯等があり、埴輪と同じく土師部が製作に当たった。須恵器は祝部式土器とも言い、大陸伝来の窯法で焼かれた鼠色の陶質土器で、盤・高杯・坩等があり、其の製造には帰化人が従事したと思われ、陶部が作った。
 後期古墳の特徴として、群集墳があげられる。円墳を中心とする小さな古墳が群れをなし、西都原古墳群(宮崎県)や吉見百穴(埼玉県)のように、今迄古墳がなかった地域にも多くの古墳が造られた。それらは、今迄の古墳のような個人墓でなく、個人と其の家族が共に葬られる家族墓だった。この事は、共同体的規則の強かった今迄の部族が変質し、その階層分化が激しくなって、有力な家族の独立的性格が強まって小豪族が輩出し、その戸主をはじめとする家族が古墳に葬られたことを示すものと言える。
 7世紀になると、仏教の影響があって火葬が行なわれようになり、また、大化2(646)年に簿葬令が発せられて、古墳は次第に廃れていった。

 装飾古墳
 線刻壁画をもつ装飾古墳としては、従来も北九州等に其の存在が知られていたが、1972(昭和47)年、奈良県明日香村の高松塚古墳から素晴らしい彩色壁画が発見された。古墳としては末期の7世紀後半(白鳳期)のものと想定されているが、帰化人の 手によって描かれたものと思われ、大陸文化の影響を色濃く受けていた。



 
0018 「氏姓制度」  

 大和国家の政府は大和朝廷であった。大和朝廷は、大王(天皇)の氏である皇室を中心にして、大和地方の有力な豪族の連合政権として形成されたのであった。国土統一に際して、地方の小国家(クニ)や、その連合を服属させ、その首長である豪族に貢納や賦役を課し、その支配する土地・人民の一部を割いて直轄地として部を編成したが、他方で、土地・人民の私有を認め、豪族を大和朝廷の支配組織に組み入れて、特定の政治的地位や職掌を世襲させた。其のような大和国家の政治組織を氏姓制度と言う。5世紀になると、応神・仁徳両天皇陵の築造や好太王碑文にみえる朝鮮出兵が示すように、大和朝廷の権力は強大化し、各豪族の朝廷に対する従属の度合いは強まっていった。豪族達は朝廷によって世襲的な政治的地位を与えられ、それによって、その土地・人民に対する支配を確立した。朝廷における世襲的地位を示すのが姓(カバネ)であり、その支配の構成単位をなすのが氏(ウジ)であった。
 氏は、原始社会の氏族のような自然発生的な社会組織でなく、大和朝廷の国家支配のためにつくられた政治組織であった。氏は多くの独立的な家族共同体からなり、その有力な家族の長が氏上(ウジノカミ)として族長的地位に立ち、朝廷に仕え、氏神の祭祀を行なって氏を統率した。氏の成員は氏人と呼ばれ、主として氏上と血縁関係を有する者によって構成されたが、血縁関係のない者も含まれていた。氏上は朝廷における地位に応じて姓(カバネ)を与えられたが、或る範囲の氏人もその姓を称することが出来た。氏には部曲(カキベ) とか奴(ヤッコ)とかいう隷属民が含まれた。部曲は氏に属し、氏上の 管理の下で農業や手工業に従事し、氏上に貢納したが、独立家計を営むことが許された。奴は氏を構成する氏人に属する者で、売買の対象となる奴隷であった。
 姓は、始め氏人が氏上に対して呼んだ尊称であったり、その氏の職掌を表したりするものであったが、天皇が与えたり、取り上げたりして、氏の間の尊卑を示すものとなり、各豪族の政治的地位や職掌を示すものとして、氏によって世襲されることになった。姓には臣(オミ)・連(ムラジ)・公(君、キミ)・別(ワケ)・直(アタエ)・造(ミヤツコ)・首(オビト)・史(フヒト)・県主(アガタヌシ)・村主(スグリ)など数十種があった。
 朝廷に仕える豪族には、前代からの豪族で、大王と姻戚関係によって勢力を持ったものや、大王の直領民である部を管掌する伴造(トモノミヤツコ)を管轄する地位に就く、大王と直結した関係によって勢力をもったものがあった。このような豪族は臣・連の姓を与えられ、蘇我氏が財政、大伴氏・物部氏が軍事、中臣(ナカトミ)氏・忌部(インベ) 氏が祭祀というように、其々が政務を分掌して世襲したが、5世紀 末頃から、その最有力者が、大臣(オオオミ)・大連(オオムラジ)として、朝廷の政治の中心に立つこととなった。大臣には蘇我氏、大連には大伴・物部氏がある。
 中級以下の豪族は伴造(トモノミヤツコ)に任ぜられた。伴部は田部や品部を管理するもので、田部・品部をして朝廷のため農産物や手工業製品を貢納させ、賦役の負担に応じさせた。
 地方の豪族は、大和朝廷に従った後も、土地(田荘タドコロ)・人民(部曲)を私有し、半ば独立的な性格をもっていたが、国・県(アガタ)・邑(ムラ)という地方組織がつくられて、国造(クニノミヤツコ)・県主(アガタヌシ)・稲置(イナギ)に任ぜられ、次第に地方官としての性格を強めてい った。国造が特に重要であった。
 6世紀になると、新羅が強大化し、半島、特に百済から戦乱を逃れて多くの帰化人が渡来したが、朝廷は帰化人達を品部に編入した。国内においては、各地に群集墳が爆発的に普及したことから判るように、地方に多数の小豪族が生まれたが、朝廷はこれも新たな部に編入した。このように、6世紀始めになって氏姓制度が再編成され、多くの豪族に統一的に姓が与えられるようになった。この事は、世襲的職掌をもって朝廷に仕えていた大伴・物部両氏のような旧豪族の地位を揺るがし、中央における豪族の対立や地方における国造の反乱を招いたが、一方で、其のような新しい部を支配出来る地位にあった蘇我氏を急速に成長させるようにもなった。また、この氏姓制度の再編成は、氏姓に就いての混乱を生み、姓によって其の政治的・社会的地位が決まるものであったために、姓を偽る者を生み出し、それを正すために、盟神探湯という一種の神盟裁判が行なわれた。

 盟神探湯(くがたち)
「日本書紀」によれば、すでに允恭天皇(5世紀中ごろ)の時、氏姓を偽るものが多く、盟神探湯を行なったという。盟神探湯は、容疑者を甕の中の熱湯の中に手を入れさせ、手が爛れれば不正であったと判定するものであった。いかにも非科学的な裁判のようだが、発汗作用、その他が心理状態によって影響を受けるから、全く根拠がないとは言い切れないとも言われている。



 
0019 「部民制」  

 皇室をはじめ、中央・地方の豪族は、其々多くの土地・人民を私有していた。朝廷の私有地は屯倉(ミヤケ)、豪族の私有地は田荘(タドコロ)と言われ、私有民は一般に部民(ベノタミ)と呼ばれた。
 屯倉には、天皇の本拠である大和地方を中心とする元々の直領地のほか、5世紀において河内平野を中心とする開拓事業の結果設置されたものや、地方から領地を献上させたりしたものがあった。
 部(ベ)は「百八十部(モモアマリ ヤソトモノオ)」と呼ばれるように様々なものがあったが、先ず朝廷が新しく獲得した私有民や帰化人を部に組織して、貢納・賦役を負担せしめ、やがて諸豪族もそれに倣って私有民を部に組織することになったものであろう。部民には、朝廷に属する田部(タベ)・品部(トモベ)のほか 、豪族に属する部曲(カキベ)があったが、部曲については前述したように、貢 納・賦役の義務を負ったが、独立家計を営むことが許され、奴隷であった奴(ヤッコ)とは異なっていた。
 品部は伴造(トモノミヤッコ)のもとで特定の職掌をもち、労働や生産物を提供し た。田部は屯倉に属した屯田(ミタ)の耕作にあたり、事実上国造の監督下におかれた。他に、皇室の私有民である名代(ナシロ)・子代(コシロ)があった。
 品部には、手工業生産にあたる者が最も多く、玉造部(タマツクリベ)・陶部(スエベ)・土師部(ハジベ)・鍛冶部(カヌチベ)・弓削部(ユゲベ)・錦織部(ニシゴリベ)等があったが、他に、軍事にあたる舎人部(トネリベ)・靱負部(ユゲイベ)等、祭祀の中臣部(ナカトミベ)・卜部(ウラベ)・忌部(イムベ)等、文筆の文部(アヤベ)・史部(フヒトベ)など様々であった。
 名代・子代は「日本書紀」では、天皇や皇族に子のないとき、其の名を後世に残すために置かれたと書いてあるが、実際は皇室の私有民だったと考えられている。
 6世紀になると、多くの部が新しく編成されたが、それによって、中央の経済力を高め、豪族の支配権を国家が吸収して、地方に対する支配を強化することが出来た。



 
0020 「信仰と習俗」  

 4〜6世紀(古墳時代)においても、一般には、原始社会以来のアニミズム(精霊信仰)やナチュラリズム(自然崇拝)が行なわれていたが、氏姓制度により氏が政治の構成単位となったために、氏上の祖先神が氏人達によって、氏神として信仰されるようになった。氏人は初め土地の神(産土神ウブスナガミ)を祀っていたが、氏が制度的に強化されるに従い、それが氏上の祖先神と考えられるようになったのである。皇室の祖先神は太陽神である、天照大御神(アマテラスオオミカミ)で、伊勢神宮の内宮に祀られているが、諸豪族の朝廷に対する従属度が増すにつれて、皇室の神々と氏神との系譜ずけが行なわれていった。この時代に於いても、氏神の祭祀は氏上の重要な仕事で、祭(マツリ)=政治(マツリゴト)という状 態には変化がなかった。
 この時代の習俗に就いては、古墳の形象埴輪や副葬品からも知ることが出来る。男子は頭髪を美豆良(ミズラ 、頭髪ヲ頭頂デ2ニ分ケ、左右ニタラシタモノ)に結い、筒袖の上衣とズボンのような袴をつけ、足首のところで紐で結んでいた。女子は、衣の下に裳をつけ、頭髪は垂髪または髷(マゲ)に結った。勾玉(マガタマ)・管玉を綴った首飾り・腕飾りをしており、上衣の袵(エリ)は左袵であった。衣料は麻が多く、上層では絹も用いられた。
 住居は、竪穴住居もまだ行なわれていたが、平地住居や高床式住居も次第に多くなり、屋根の形は、切妻造・寄棟造(四柱造)・入母屋造等が用いられた。今日の神社建築は当時の住居様式を伝えるもので、神明造・大社造等があり、いずれも天地根元造から発達したものである。(天地根元造は、屋根のみの造りで、縄文時代や弥生時代の竪穴住居はこれであった。大社造に出雲大社本殿、神明造に伊勢の内宮外宮正殿がある。)



 
0021 「帰化人」  

 4世紀後半以来、日本が朝鮮に進出するようになって、多くの中国人や朝鮮人が日本に渡来した。このように、日本に渡来し、日本の国籍を取得した外国人を帰化人と云う。
 4世紀には、高句麗の進出によって楽浪・帯方両郡が滅亡し、半島における漢民族の勢力が失われ、その遺民たちは百済に亡命した。また、百済は中国南朝と通交して、多くの中国系技術者を抱えていた。このような中国人の技術者や朝鮮人の技術者が、国王によって日本に贈られてきたり、戦闘による捕虜として日本に連れてこられたりしたのだった。大陸から自分の意志で日本に逃れてきた者もあり、特に、7世紀になって新羅が強大化し、百済・高句麗が滅ぼされると、其の遺民が多数帰化してきた。当時の帰化人は百済からの者が最も多いが、新羅・高句麗の者もあり、中国人も含まれていた。
 帰化人は、大部分が技術者であったが、中には学者もあった。その伝えた技術は多種多様で、陶器・織物・鍛冶・木工・酒造等のほか、土木技術や農耕技術もあり、大和朝廷や豪族は喜んでこれを迎え入れ、朝廷は帰化人を部に編成した。帰化人は当時の社会・産業・文化の発達に大きな影響を与えた。後述する文字の習得や仏教の受容という面はもとより、氏姓制度には百済の制度の影響が見られるし、横穴式石室をはじめ、古墳の築造も、大陸系の土木技術の導入によるものだった。蘇我氏が大きな勢力を持つようになったのは、帰化人をその支配下においたからである。

 帰化人の部
 史部(フヒトベ)・文部(アヤベ)・鞍作部(クラツクリベ)・服部(ハトリベ)・鍛冶部(カヌチベ)・陶部(スエベ)・錦織部(ニシゴリベ)・工部(タクミベ) 酒部(サカベ)等。

 有名な帰化人
 阿知使主(アチノオミ)[東漢氏(ヤマトノアヤ)の祖先。後漢の出で帯方の地に移住し、応神天皇の時17県の人民を率いて帰化したという]
 王仁(ワニ)[西文氏(カワチノフミ)の祖先。阿直岐(アチキ)の勧めによって来朝論語・千字文を伝えたという。]
 弓月君(ユズキノキミ)[秦氏(ハタシ)の祖先。秦始皇帝の子孫で、応神天皇の時、127県の人民を率いて帰化したという。]
 推古天皇の時には、百済の観勒、高句麗の曇徴などが帰化した。



 
0022 「漢字の伝来」  

 古墳時代に入って、日本は完全に鉄器時代に入ったのだが、文字の使用もほぼその頃から始まった。然し、日本人が自らの文字を作るのではなく、帰化人によって齎らされた漢字を習得したのだった。
 『日本書紀』によると、応神天皇の時、百済から来朝した阿直岐の勧めによって王仁が来朝し、論語10巻と千字文1巻を伝えたという。この伝承を、その侭史実とみるわけにはいかないが、朝廷の文筆の仕事は「史(フヒト)」の姓を貰った帰化人が専らこれを担当した。東漢氏(ヤマトノアヤ)・西文氏(カワチノフミ)の子孫は 、東西史部(ヤマトカワチノフヒトベ)としてこの仕事を世襲していた。然し、日本人も次第に漢字に習熟し、5世紀には漢字の使用が普及していった。熊本県江田船山古墳出土の太刀銘と、和歌山県隅田(スダ)八幡宮所蔵の人物画像鏡銘が、それを示している。そこでは、日本語を漢字で表そうとする試みがなされている。
 何れにせよ、文字を使用することによって、日本は急速に未開の段階から文明の段階へと進んでいったのだった。



 
0023 「稲荷山古墳鉄剣銘」  

 1978年(昭和53年)、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣から、115 文字の銘文が発見された。その「辛亥年七月」「獲加多支鹵大王」の文字が注目され、「辛亥年」は471年、「獲加多支鹵大王」は「わかたけるのおおきみ」と読んで、倭の五王の一人である武記紀にワカタケルの名で記録されている雄略天皇のことを指すと考えられる。熊本県玉名菊水町の江田船山古墳出土の太刀銘には「治天下獲□□□鹵大王世」とあり、「獲□□□鹵大王」は始め反正天皇(倭王珍?)に当たると考えられていたが、これによって、同じく雄略天皇のことであると考えられるようになった。こうして、雄略天皇は、倭王武として中国の南朝宋に上表する一方、東は関東、西は九州にまで何らかの支配権を行使たことが推定されるようになった。



 
0024 「儒教と仏教」  

 宗教は、一般に原始宗教の段階から民族を単位に信仰される民族宗教の段階に進み、やがて普遍的な原理と倫理とをもった世界宗教が、特定の教組によって作り出され、それは民族の範囲を超えて広がっていくものとされる。だから、どのような民族もその民族宗教から世界宗教へと展開してゆくのではなく、すでに作り上げられている世界宗教を受け入れることによって世界宗教の段階へ入ってゆく民族が多い。
 世界宗教として、仏教・キリスト教・イスラム教等が挙げられる。ユダヤ教は民族宗教ではあるが、その内部からキリスト教が展開した後も、ユダヤ人はユダヤ教を守り続けているし、インド人のヒンズ−教もそのようなものであった。神道は日本人の太古(フトマニ)の土俗信仰から発したもので、民族宗教と云えるかもしれないが、宗教としての体系を整えたのはかなり後になってからで、而も、統一的な体系があるとも云えない。
 仏教は、B.C.5世紀頃インドの釈迦(ゴ−タマ=シッダルタ)によってはじめられたもので、そのような世界宗教の一つであった。釈迦はこの世の中の業(ゴウ)を断ち切り、法(真理、ダルマ)を認識して輪廻(リンネ)の苦しみから解脱(ゲダツ)し、涅槃(ネハン)の境に入ったのだった。解脱した釈迦は、総ての人を救うために、どのようにすれば悟りの境に到達できるかを説いた。それが仏教である。
 儒教は、釈迦と略同じ頃、中国の孔子によってはじめられた。釈迦が専ら人間の内面から人間の救いを考えたのに対し、孔子は政治道徳として実践倫理によって人間を救おうとした。人間の内面の救いが問題とされていたのがインドの伝統であったし、政治の倫理によって人間を救おうとするのが中国の伝統であったと云える。儒教は宗教とは云えない性格を持っているが、仁という概念を根本とし、政治家に先ず自己の身を修めることを求めたのだった。
 このようにB.C.6〜5世紀には、釈迦・孔子のような偉大な思想家が゙輩出した。同じ頃のギリシャのソクラテス、やや遅れたキリストを加えて、ドイツ哲学者ヤスパースは、この時代を「枢軸時代」と呼んでいる。ヤスパースも言うように、現代に至る人間精神生活の大きな形はこの時代にできたとも言える。
 日本に儒教が伝わってきたのは6世紀始めであった。その頃、百済は新羅や高句麗に押されて、中国南朝の梁(リョウ)等と結んで、中国文化は百済に流れ込んでいたが、同時に、百済は日本とも結んでいたため、日本には百済を経由して中国文化が伝わってきた。応神天皇のときに王仁が論語を伝えたと云われていることは前述したが、継体天皇のとき513年に百済は五経博士段楊爾を日本に送り、516年にも五経博士漢高安茂(カンノコウアンモ)を日本に贈ったと云う。
 やや遅れて、仏教も百済から伝わった。初期の仏教は信者に戒律を厳しく守ることを求めるもので、小乗仏教と云われたが、B.C.1世紀ころ仏陀の慈悲により衆生(シュジョウ)を済度しようと考える大乗仏教が起こった。小乗仏教はセイ ロン・ジャワ等に伝わって南伝仏教と云われ、大乗仏教はチベット・中国などに伝わって北伝仏教と云われる。日本に伝わってきたのは、北伝仏教(大乗仏教)であった。『扶桑略記』には継体天皇のとき522年に梁の人、司馬達等(シバタット)が私宅に仏像を安置したと伝えているが、欽明天皇のとき538年に百済 の聖明王 が仏像・経典を贈ってきたのが、仏教公伝の始めとされている。
 仏教公伝の年次は、『日本書紀』では522年とされているが、それには矛盾があって、『元興寺縁起(ガンゴウジエンギ)』や『上宮聖徳法王帝説(ジョウグ・・ウショウトクホウオウテイセツ)』の伝える538年(欽明天皇7年、戊午の年)が正しいとされている。
 『日本書紀』では、仏教受容をめぐって蘇我氏と物部氏との間に対立があったとしている。帰化人は仏教信者が多かったと考えられるので、帰化人と関係の深かった蘇我氏が帰化人の歓心を得るためにも仏教を認めようとし、古い型の豪族であった物部氏と対立したことは考えられることである。ともかく、こうして伝わった儒教や仏教は日本人の精神生活に大きな影響を与えることになった。とりわけ、仏教は早くから大きな影響を及ぼした。然し、一般には昔からの土俗信仰が盛んで、太占などの呪術が盛んに行なわれていたから、極く一部を除いて、仏教もそのような呪術的なものと結びついて広がった。百済からは、この他、医博士・易博士・暦博士・僧・楽人・造佛工・造寺工等が献上された。



 
0025 「大和朝廷の動揺」  

 6世紀始め武烈天皇が亡くなると、皇位継承者が見当らず、大伴金村の計らいで、越前から男大迹王(オオトノオウ)が迎えられ、皇位に就いた。これが継体天皇である。その頃、朝鮮半島では新羅・高句麗の勢いが伸び、百済は圧迫されて、南の任那の地に勢力を植え付けようとし、日本の半島経営は苦境にたっていたが、半面では帰化人の流入を生んだ。国内では、階級分化が進み、各地に小豪族が台頭してきたが、朝廷はそれらを部に編入し、屯倉を新設して、氏姓制度を再編しつつあった。そのようななかで、朝廷内部の豪族の対立が激化していった。
 継体天皇の頃、半島経営には主として大伴金村が当たっていたが、失地回復を任那に求めた百済に、512年金村は任那4県を割譲したので、任那は動揺し、日本の半島での立場は悪くなって、金村への非難が起こった。527年日本は近江毛野(オオミノケヌ)を任那に派遣して新羅を討たせたが、外征の負担に苦しむ北九州の筑紫国造磐井が新羅と結んで乱を起こしたりして征討は進まず、一層任那の不信を買った。
 磐井の乱は、529年物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)によって鎮定されたが、以後、日本の半島経営は益々力を失って、欽明天皇の時562年には 新羅により任那日本府は滅亡することになる。欽明天皇は任那回復の詔を残したが、遂に実現しないままに終わり、ここに、4世紀後半以来の日本の半島経営は終わりを告げ、半島に対する日本の支配力は急速に弱まっていった。
 大伴氏は、平群氏(ヘグリ)を滅ぼして全盛を極めたが、531年欽明天皇が即位すると、朝鮮政策の失敗のために大伴金村が失脚して勢力を弱め、代わって物部氏と蘇我氏が対立することとなった。物部氏は古来の豪族で、軍事を世襲していたが、舎人部・靱負部などが設けられて、その政治的比重は低下しつつあり、蘇我氏は斎蔵(イミクラ)・内蔵(ウチクラ)・大蔵(オオクラ)の三蔵を管理し、朝廷の屯倉(ミヤケ)を管理するなど、朝廷の財政を握り、帰化人とも結んで大和 朝廷の再編成に積極的に取り組んでいた。仏教の受容をめぐって物部尾輿と蘇我稲目は激しく争ったが、587年用明天皇が亡くなると、皇位継承をめぐって両氏の争いは爆発し、物部守屋は蘇我馬子に攻められ、物部氏は滅び、蘇我氏が専権を振るうこととなった。



 
0026 「聖徳太子」  

 592年蘇我馬子は帰化人を使って崇峻天皇を殺害するにいたった。このようななかで、最初の女帝推古天皇(在位592〜622)が即位し、翌593年には天皇の甥の聖徳太子[厩戸豊聡耳皇子(ウマヤドノトヨトミミノミコ)、574〜622]が摂政として政治に当たり、政局の打開を目指した。
 聖徳太子の使命は、先ず何よりも、崇峻天皇が殺されて以来の政治の動揺を押さえることだったが、それは、取りもなおさず、6世紀始めから展開されていた地方に台頭しつつある勢力を掌握し、天皇を中心とする統一的な国家組織をつくるという仕事を推進してゆくことであった。それを行なうに際して、聖徳太子は蘇我馬子の協力を得て新来の先進文化であった儒教や仏教を出来るかぎり利用し、中央の官制を整えたり、官吏の心構えを正したりするという方法をとった。土地や国民を直接的に掌握し、官僚機構を根本的に改革するという作業は、大化改新を待たねばならなかったが、そのための治績として、特に注目すべきものは、603年の冠位十二階の制定と604年の憲法十七ケ条の制定であった。



 
0027 「太子の業績 −政治の刷新−」  

 太子によって、官職が世襲的に家柄で決まっていたのに対し、12の 冠位を定め、個人の勲功と才能によって一代を限りとして与えるもの。 (1)家柄ではなく、(2)個人に与えたこと、(3)世襲されることがないこと、(4)昇進もあったことが要点である。門閥政治の弊を改め、人材当用を計るのが目的。然し、新たな官制を創出したのではない。冠位は、儒教の徳目から徳・仁・礼・信・義・智の六つをとり、それぞれ色によって区別し、更に大小の二つに分けて12とした。



 
0028 「太子の業績 −憲法十七ケ条−」  

 現在の憲法とは異なり、官吏の心構えを述べたもの。厳密には法ではないが、日本最古の成文法というべきもの。儒教思想を根本とし、仏教・法家等の思想も取り入れられている。天皇中心の国家であることを強調し、豪族間の争いを止めるようにと述べてある。
 天皇家の系譜を見れば判るように、当時皇統は親から子へではなく、兄弟間に継承された。それが皇位継承の争いを激化させた原因でもある。そして、其のことが、豪族間の争いとも結びつく場合があった。      
『天皇記国記臣連伴造国造百八十部并公民等本記』(モモアマリヤソトモオノオオオミタカラドモノ)
 620年。蘇我馬子とともに編纂。天皇と豪族との関係を明らかにして、 天皇の絶対性を強調することが目的だったと考えられる。大化改新(645 年)の際、蘇我蝦夷(エミシ)が私邸に火を放ったときに焼失したと考えられ、現存しない。



 
0029 「太子の業績 −遣隋使−」  

 聖徳太子に与えられたもう一つの使命は、欽明天皇以来の悲願であった任那の回復であった。597年新羅に使いを派遣し、600年には境部臣(サカイベノオミ) を派遣して5城を抜かせ、602年、603年にも出兵を試みた。然し、任那の回復は結局実現しそうもなかったので、太子は隋に使節を派遣し、大陸文化を摂取して、国力の充実を計ろうとした。
 その頃、中国では北周から出た隋の文帝が、589年には南朝の陳を滅ぼして 中国統一を完成し、百済・新羅と結び、文帝についで即位した煬帝(ヨウダイ)は612年より高句麗大遠征を行なった。聖徳太子による遣隋使の派遣は、5世紀末の倭王武の遣使以来途絶えていた中国王朝との国交を再開するものであった。『隋書倭国伝』には600年にも遣隋使が派遣されたとしているが、日本の記録には伝わっていない。『日本書紀』が第一回派遣として伝えるものは、607年 に小野妹子を隋に派遣したそれで、その持参した国書は、隋と対等の立場でもって貫かれていたという。隋帝は喜ばなかったが、答礼使として文林郎輩裴世清(ハイセイセイ)を日本に派遣し、608年日本は再び小野妹子を隋に派遣した。その時、多くの留学生・留学僧が随行した。高向玄理(タカムコノクロマロ)・南淵請安(ミナブチノショウアン)・僧旻(ミン)等がそれで、彼等は約30年間中国に滞在し、中国の文物や制度を身につけて帰朝し、大化改新や、その後の律令国家の建設に大きな役割を果たすことになった。



 
0030 「太子の業績 −飛鳥文化−」  

 推古天皇の時代を中心に、大化改新(645)頃までを飛鳥時代とよび、飛鳥文化の花が開いたが、それは594年の仏教興隆の詔や十七条憲法の「篤く三宝 を敬え」という言葉にも示されるように、聖徳太子の保護・奨励のもとに栄えた仏教文化であった。隋は仏教によって国を治めるという政策をとっており、聖徳太子による遣隋使の派遣は、その仏教文化の摂取を大きな目的とするものだった。然し、この時代の大陸文化の摂取は朝鮮半島、特に百済を経由して流入してきたものが多く、そのため、飛鳥文化は隋より前の南北朝(六朝)文化の影響が大きい。推古天皇のときにも、百済は日本との国交を密にし、学者・技術者を贈ってきたが、高句麗も隋からの脅威に曝されたため、日本との国交を結び、学者・技術者を贈ってきた。このような半島との国交によって、南北朝の文化が日本に輸入された。602年には百済から僧観勒(カンロク)が渡来して、天文 ・暦法などを伝え、高句麗からは595年に僧慧慈(エジ)が渡来して聖徳太子に仏教を教え、610年に僧曇徴(ドンチョウ)が来て、彩色・紙墨を伝えた。
 聖徳太子は、難波(大阪府)の四天王寺や大和(奈良)斑鳩の法隆寺をはじめ七つの寺を建て、諸豪族も、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)を建立したのをはじめ、秦河勝も京都太秦に広隆寺を建て、624年には寺院46を数えた。中でも 法隆寺は重要で、五重塔・金堂や回廊の一部は、当時の建築様式をよく伝え、現存する世界最古の木造建築である。



 
0031 「太子の業績 −法隆寺−」  

 法隆寺は607年に創建されたが、『日本書記』に天智天皇のときの670年に全焼したと記されている。この記事から現在の法隆寺は再建されたという説と、建築の様式から創建当初のものであるとの説とがあった。1939年(昭和14年)に四天王寺式の伽藍配置をもつ若草伽藍址が発見され、現在の伽藍は当初の飛鳥様式に従って再建されたという説が有力になった。なお、現在の金堂は1949年(昭和24年)に焼失し、その後再建されたものである。法隆寺の建築には、柱の中央よりやや下部に膨らみがもたせてあり、ギリシャのエンタシス様式が認められる。



 
0032 「太子の業績 −仏教の浸透と教育−」  

 一般には、それまでの農耕儀礼に基づく呪術と同じような立場から、新奇なものに対する好奇心から仏教に近付いていったのだが、なかには、仏教の教理に対する深い理解を示すものも現われた。聖徳太子の『三経義疏』(サンギョウギショ)がそれである。『三経義疏』は法華経・勝鬘経(ショウマンキョウ)・維摩経(コイマキョウ)の三経典の註釈書で、中国の註釈を取捨選択し、独自の解釈も加えている。 寺院が建立されるにともない、造佛も盛んになった。この時代の仏像は、古拙のなかに不思議な笑みを湛えている。六朝の様式を引くが、北魏系のものと南梁系のものとに分けられ、前者には法隆寺金堂の釈迦三尊像や同夢殿の救世観音像のように左右相称で、古拙のうちに力強い感じのものがある。後者には中宮寺の半跏思惟像(弥勒菩薩像)や法隆寺の百済観音像のように柔和な感じのものがあり、前者より写実性に富む。佛工には司馬達等の孫と伝える鞍作首止利(クラツクリオビトトリ)(鳥佛師)が有名で、法隆寺釈迦三尊像は彼の作である。この頃高句麗から来朝した曇徴が紙墨・彩色の法を伝えたという。曇徴の描いたものは残っていないが、絵具は密陀僧と呼ばれるもので、それで描いたものは密陀絵(一種の油絵)といい、法隆寺の玉虫厨子の台座に描かれた捨身飼虎図(シャシンシコズ)がある。中宮寺の天寿国繍帳(テンジュコクシュウチョウ)は、当時の 刺繍の絵画としてすぐれている。この時代の工芸品に用いられた忍冬唐草文様(ニントウカラクサモンヨウ)は、中国六朝を経て、遠くササン朝ペルシャやギリシャの流れを汲むもので、当時の文化の国際性を知ることが出来る。



 
0033 「唐と近隣国家」  

 隋は、煬帝による大運河開堀や高句麗遠征の失敗によって民心を失い、各地に反乱が起こって、618年、3代38年で滅亡し、代わって唐が建国し、中国を統一した。唐は、高祖(李淵)・太宗・高宗の3代で、東は朝鮮半島から西は中 央アジア、北はシベリアの南辺から南はインドシナ半島に及ぶ広大な地域を支配する世界帝国をつくりあげた。
 中国では、南北朝時代より門閥貴族の力が強まり、その大土地所有が進行していたが、唐は、それを押さえるために、北魏以来の均田制を行なって農民に土地を給し、府兵制を併せ行い国民の間から義務として兵をとった。また、科挙を整備して、官僚を試験によって採用して貴族勢力を押さえようとした。唐は六部をおいて、中書省から出される詔勅を尚書省が施行するものだったが、門下省は詔勅を審議する機関であり、これにより貴族は皇帝に制限を加えることが出来た。このように唐の時代においても、貴族勢力を押さえようとしながら、貴族の政治的発言力は極めて強く、均田制の中から荘園制が発達していった。
 広大な世界帝国を形成したために、唐代には極めて国際色豊かな貴族文化が開花した。然し、周辺諸国家には、唐の拡大はそのまま政治的な危機であったから、唐の周辺では、相次いで唐に倣った中央集権的統一国家が形成されることとなった。朝鮮半島においても、唐は新羅と結び、660年に百済を、次い で668年には高句麗を滅ぼした。江戸幕府末期に、人々が欧米諸国による併呑の危険を感じとったのと略々同じくらい強烈に、当時の唐の周辺国家の人々は、陸続きでもあるし、唐による併呑の危険を感じとったであろう。その危険から免れようとして、明治の時に行なったのと同じく、当時の周辺国家の人々は、唐の制度を取り入れ、その文化を身につけようと必死になったであろう。



 
0034 「大化改新」   

 622年聖徳太子の死後、蘇我氏は再び権勢を振るい、馬子の子、蝦夷(エミシ)は、太子の子山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウジ)を押さえて舒明天皇(在位629〜641)を擁立した。その頃、中央の政治は大臣(オオオミ)・大連(オオムラジ)を中心とし、 大夫(マエツキミ)といわれる廷臣の合議によって行なわれ、舒明天皇のときには 政局も比較的安定していたが、舒明天皇のあと、蝦夷は舒明天皇の皇后であった女帝皇極天皇(在位642〜645)を立て、蝦夷の子入鹿(イルカ)が政治にあたるようになって、入鹿の専横が目立ってきた。643年入鹿が声望の高かった山背大兄王を襲って殺してからは、廷臣の中にも蘇我氏の専横に反発する動きが現われてきた。
 蘇我氏の強大化の過程は、朝廷の財政を握り、皇室の直轄地を支配し、或いは天皇と姻戚関係を結ぶように、6世紀の始めから聖徳太子の新政にかけて強まってゆき、天皇による権力集中の過程と結びついたものであった。然し、隋が滅亡し、唐が日増しに強大化するありさまが、帰朝した遣唐使や留学生等によって伝えられ、特に644年から翌年にかけての唐の太宗(李世民、在位626〜649) による大々的な高句麗遠征の報が齎らせると、国内の危機感が強まり、天皇中心の強固な集権国家を作る必要が痛感されるようになった。
 このような情勢のもとで、中大兄皇子(ナカノオオエノオウジ)(後の天智天皇)と中臣鎌足(ナカトミノカマタリ)は密かに蘇我氏打倒の計画を進め、阿部内麻呂や蘇我倉山田石川麻呂らと計って、645年蘇我入鹿を大極殿に暗殺した。豪族が中大兄皇子に従ったことを知った蝦夷も、自邸に火を放って自殺したので、本家が滅亡した蘇我氏は急速に没落することとなった。
 蘇我氏が滅ぼされると、直ちに新政府が樹立された。皇極天皇に代わって弟の軽皇子が即位して孝徳天皇(在位645〜654)となり、中大兄皇子は皇太子として政治にあたった。左右大臣・内臣(ウチツオミ)・国博士(クニノハカセ)が設けら れ、左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、中臣鎌足が内臣、唐から帰朝した高向玄理(タカムコノクロマロ)・僧旻(ミン )が国博士として皇太子を援けることとなった。皇太子は群臣を集めて朝廷に対する忠誠の誓盟を行い、初めて年号を定めて「大化」とした。この年から649(大化5)年にかけて次々と改革が行なわれたが、645年の蘇我氏滅亡から649年の中央官制整備ころまでを、大化改新といっている。
 645(大化元年)年末には大和の飛鳥から難波(大阪府)の長柄豊碕宮(ナガラノトヨサキノミヤ)へ遷都したが、翌646(大化2)年正月、改新の詔が発布され、改新政治の基本方針が明らかにされた。改新の詔は4ケ条から出来ている。

第一条 公地公民の制が述べられ、皇室や豪族の私有地である屯倉・田荘、私有民である子代・部曲等を廃止して国家に収め、代わりに大夫以上に食封(ジキフ)、それ以下には布帛を与えた。
第二条 地方行政組織に就いて述べ、畿内を定め国司・郡司・里長をおいた。その他、駅馬・伝馬・鈴契(スズシルシ)等の交通、関塞(セキソコ)・防人(サキモリ)等の軍事に関する諸制度も定められた。
第三条 班田として農地を人々に班給し、租を取ることとした。
第四条 税制に就いてのべている。租のほか庸・調を取り、仕丁(シテイ)・采女(ウヌメ)の制を定めた。
《コノ改新ノ詔勅ハ『日本書紀』ニ記載サレテイルガ、文体・内容トモニ整イスギテイルコト、後ノ令ノ内容ニ酷似シテイルコトナドニヨッテ、『日本書紀』ノ編者ガ造作シタモノデハナイカト疑ワレテイル。然シ、当時ニ記録ガアッテ、ソレヲモトニ後ニナッテ手ガ加エラレタモノトシテ、大綱ヲ認メルノガ普通デアル。》

 大化改新の目的は、氏姓制度を廃して中央集権国家を作ることにあったが、その眼目はこの改新の詔に示されるように、土地・人民の私有を廃して国家に収める公地公民制をとり、それに基づいて班田収授法を施行することであった。それとともに政治の仕組みも根本的に変革され、姓(カバネ)による世襲を廃して新しく官職や位階が設けられることになる。



 
0035 「天智天皇の政治」  

 孝徳天皇の死後、中大兄皇子は皇極天皇を再び即位させ齊明天皇(在位655 〜661)とし、自らは皇太子にとどまって政務を担当した。この頃、阿部内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂・南淵請安・僧旻は既に死し、改新当時の中心人物で残っていたのは皇太子と中臣鎌足だけであった。中大兄皇子は専制化し、次々と大造営工事を行なったので、新政府に対する批判が強まった。658年孝徳天皇の皇子有間皇子(アリマノミコ)が謀叛の疑いで殺されたのは、その時である。

 重祚
いったん退位した天皇が再び皇位につくのを重祚(チョウソ)という。重祚の例には、皇極天皇(齊明)のほか、奈良時代の孝謙天皇(称徳)があげられる。何れも女帝であった。
 中大兄皇子による粛清
政権交代や革命の際には、或る程度、政治路線をめぐって粛清がつきものだが、大化改新の場合も例外ではなく、中大兄皇子により何人もの人が殺された。

 古人大兄皇子
古人大兄皇子は蘇我入鹿の従兄弟にあたる。大化改新の年、645年にその子とともに吉野で殺された。
 蘇我倉山田石川麻呂
石川麻呂は大化改新の功臣の一人。中大兄皇子の妃の父で、後の持統天皇の外祖父にあたる。649年、阿部内麻呂の死後、蘇我日向(ヒムカ)の讒言により、殺された。官職の世襲制否定に反対したためと言われる。
 有間皇子
有間皇子は孝徳天皇の長子で、皇位継承の筆頭者だったために中大兄皇子に警戒された。658年、蘇我赤兄(アカエ)が有間皇子に謀反をすすめ、その夜のうちに捕らえさせ、皇子は紀伊に送られる途中で殺された。

 期を同じくして、阿部比羅夫による蝦夷征討が行なわれた。改新後、東北経営の前進基地としては、日本海側の越後(新潟県)に淳足柵(ヌタリノサク、647) ・磐舟柵(イワフネノサク、648)が設けられていたが、比羅夫は水軍を率いて秋田・津軽方面の蝦夷を討ち、北海道にも軍をすすめて、粛慎(ミシハセ、満州沿海州の民族)を討ったとも伝えられている。
 一方、半島では新羅が強大化し、唐と結んで、660年には百済を滅亡させるという事態が起こった。百済の遺臣が救援を求めてきたので、天皇・皇太子は筑紫に下り、大軍を朝鮮に派遣したが、663年白村江(ハクスキノエ、南鮮の錦江 河口)において唐・新羅連合軍のため大敗し、日本軍は撤兵して、日本は朝鮮における権益を完全に失うこととなった。
 齊明天皇は筑紫で死去したので、中大兄皇子が代わって国政をみた。これを称制という。この間、壱岐・対馬・筑紫に防人(サキモリ)と烽火(トブヒ)を置き、太宰府防衛のために水城(ミズキ)を造るなど九州の防備に力を注いだが、665年以後唐・新羅と相次いで国交が回復し、海外の緊張が薄らぐと、中大兄皇子は、667年都を近江大津京に遷し、翌年即位した。これが天智天皇(在位668〜671)である。
 天皇は内政整備に力を入れた。氏上を定め、民部(カキベ)・家部(ヤカベ)を復活するなど、改新の方向に反するものもみられたが、最初の法令集として近江令(オウミリョウ)22巻を制定したと伝えられる。670年には全国的に戸籍を作らせた。庚午年籍(コウゴネンジャク)と言われるものである。戸籍は口分田を班給する際の基礎になるもので、この庚午年籍は永く保存され、戸籍の基礎とされた。
近江令の制定は、9世紀に編纂された『弘仁格式(キャクシキ)序』に始めてみえるもので、制定を否定する説もある。



 
0036 「天武天皇の政治」  

 天智天皇ははじめ弟の大海人皇子(オオアマノミコ)を皇太子としたが、やがて子の大友皇子を太政大臣として皇位継承者を大友皇子とする意志を示したので、大海人皇子は吉野へ退いた。天智天皇が死ぬと、2人の対立は表面化し、672年大海人皇子は美濃に走って兵を挙げ、近江に大友皇子を攻めて敗死させた。これを乱が起こった年の干支をとって、壬申の乱と言う。
 大友皇子が即位したかどうかは明らかではないが、江戸時代の『大日本史』で天皇に列せられ、明治政府が即位説をとって弘文天皇のおくり名をおくった。
 壬申の乱の直接の原因は皇位継承の争いであったが、朝廷が近江方と吉野方に分裂し、戦乱が畿内だけではなく周辺地方にも起こったことは、改新政治の進行に対して不満が広く行き渡っていたことを示すものであった。大海人皇子は美濃・尾張から信濃・甲斐にわたる国司・郡司などの地方豪族や舎人などの下級身分の者を捉えたのであって、大海人皇子が壬申の乱で勝ったことは、家柄を誇る保守的な中央豪族の勢力を駆逐したことになり、この乱の結果、改新政治が急速に進展し、天皇の権威が飛躍的に高められることになった。
 乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(アスカキヨミガハラノミヤ)に入って即位した。これが天武天皇(在位673〜686)である。天皇は一部復活された部曲を再び廃止するなど、公地公民制を徹底し、また食封を一時廃止して旧豪族の政府に対する依存性を強め、684年には八色の姓(ヤクサノカバネ)を制定して、曾ての姓の制度を利用しながらも、皇親を中心とする新しい身分秩序を形成していった。こうして、天皇を中心とする国家体制を作っていったのだが、さらに、681年飛鳥浄御原律令の編纂に着手した(令22巻は689年施行)。また、国史の編纂を開始し、天皇の権力を歴史的にも理念的にも基礎づけようとした。そのため、天皇は自らを「明神」(アキツカミ)と呼び、『万葉集』には「大君は神にしませば」と詠われたように、天皇の神格化もはじめてみられるにいたった。

 八色の姓
八色の姓とは、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8つの姓で、真人は皇族、朝臣は臣の一部、宿禰は連の一部とし、忌寸は国造の有力者をあてた。旧豪族の上位者である臣・連は下位とされ、皇族と天皇に近い豪族が上位を占めた。

 天武天皇は、大臣をおかず、天皇・皇后・皇子等によって、所謂、皇親政を行なったが、天皇が死ぬと、大津皇子は謀反のかどで捕らえられて自殺させられ、皇后の持統天皇(在位690〜697)が立った。持統天皇は高市(タケチ)皇子を太政大臣とし、694年には大和三山に囲まれた地に唐の都城制に倣って藤原京を造営して、そこに移った。697年、孫の文武天皇(在位697〜707)に皇位を譲ったが、持統天皇は初めての太上天皇として政治に当った。文武天皇は、やがて、鎌足の子藤原不比等(659〜720)等を用い、701年に大宝律令を完成させた。
 白村江の敗戦(663)により内政に専念する条件が出来たこと、壬申の乱(672)により旧豪族の勢力が駆逐されたことによって、天武・持統・文武の3代のときには天皇の権力と権威が強大化し、それによって政局が比較的安定して改新政治が進展し、律令体制は次第に完成に近づいていった。



 
0037 「白鳳文化」  

 中大兄皇子(天智天皇)は仏教に対して消極的態度をとったが、天武・持統両天皇は、薬師寺の造営をはじめ、鎮護国家を説く仁王経・金光明最勝王経(コンコウミョウサイショウオウキョウ)の講説を行なうなど、仏教興隆に努めたので、仏教文化が栄えることになった。天武朝を中心に、大化改新(645)から平城遷都(710)頃までの時代を、天武朝のときと考えられる年号に因んで白鳳(ハクホウ)時代とよび、その文化を白鳳文化とよんでいる。
 この時代には、唐文化の輸入に熱心で、数回にわたり遣唐使が派遣され、また、百済・高句麗の滅亡にともない、多くの帰化人が渡来したから、インド・イランなど西方の芸術を豊かに取り入れた初唐文化の影響を受け、国際性に富んだ、清新の気に満ちた大らかな文化が作り出された。
 白鳳美術の代表的なものが薬師寺で、各層に裳階(モコシ)をつけた3重の東塔は軽快なリズム感に充ちている。(西塔は焼失したが、最近再建された)この時代の仏像は、体つきも丸味をもち、量感に充ちているが、東院堂の聖観音像は金堂の薬師三尊像とともに、そのような初唐の様式をよく伝えている。他に、彫刻では、明るい表情の中に僅かに古式の微笑みを漂わせる興福寺(奈良県)の仏頭があり、絵画には、唐を経てインドのグプタ朝芸術が影響したことを示す法隆寺金堂の壁画(1949年焼失)や1972(昭和47)年発見された高松塚古墳壁画が有名である。

 薬師寺
680年、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒のために発願し、10数年を費やして、文武天皇の時完成した。藤原京に造られたが、718(養老2年)ころ、今の平城京の地に移された。東塔と金堂薬師三尊像に就いては白鳳説と天平説とがあるが、ここでは白鳳説に従った。東塔・金堂薬師三尊像・東院堂聖観音像の他に天平期の絵画として吉祥天画像がよく知られている。

 この時代には天皇の権威が高まり、天武天皇の時に国史編纂が開始されたがそれは奈良時代に『古事記』・『日本書紀』として完成する。大津皇子らによって漢詩も作られるようになったが、漢詩の影響を受けて、五七調を基調とする和歌の形式がつくられ、長歌・短歌・旋頭歌(セドウカ)などの別が生じた。歌人としては、天智天皇・天武天皇・持統天皇・有間皇子・額田王(ヌカダノオオキミ)・柿本人麻呂らが名高く、特に柿本人麻呂は宮廷詩人として活躍し、天皇を神として讃える歌を作った。それらは後に『万葉集』に収められた。 



 
0038 「律令体制の完成」  

 大化改新は、地方における小豪族の台頭とそれに伴う中央における氏姓制度の動揺という事態に応じるために、また、唐と唐を結ぶ新羅の強大化という外圧に抗するために行なわれた政治変革であったから、地方に対する支配力を強化し、中央豪族を貴族化することが必要であった。そのためには、唐の制度を積極的に取り入れて、天皇を中心とする統一国家を作らねばならなかった。その基礎となったものが律令である。上記の理由のため、日本の律令は唐の律令の模倣と言えるものであったが日本の現実に適合させるため、多くの改変を行なった。

(1) 神祇官を太政官から切り離して独立させた。
(2) 官制を著しく簡素化した。
(3) 律の刑罰を軽くした。
(4) 班田収授法は、唐の均田法とは著しく異なっていた。
(5) 郡司には地方土豪を任命し、律令官制の中で独特の方式を持っていた。

 律は現在の刑法・刑事訴訟法に相当し、刑罰を詳細に決めたもので、令は現在の行政法・民法に相当し、官制・税制・田制・兵制・学制などを規定した。律令の編纂は、天智天皇のときに近江令(671年施行)、天武天皇のときに飛鳥浄御原律令(689年持統天皇が令を施行)が編纂されたが、続いて文武天皇のとき、701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年に施行された。大宝律令は刑部親王(オサカベ)や藤原不比等らが編纂に当たったもので、ここに律令制定事業は略完成したと言える。その後、元正天皇のとき718年(養老2年)に藤原不比等らによって大宝律令に修正が加えられ、次いで再修整が加えられ養老律令として制定された。今日、当時の律令制度を考える時、これを基本として考えを進めて行くことが普通である。



 


− 仏18世紀 −


0039 「窮乏化だけで革命は起きない」  

 革命前のフランス農民は、確かに貧しかった。そしてヤングのようなイギリス人の目には、それは赦しがたい悲惨と映ったのも当然である。
人々はあまりの貧窮に追い詰められた時、生命の基本的欲求を護る為めに、直接行動に出るであろう。然し、それだけでは一揆に終わって、革命とはならない。
また、領主の奥方が妊娠したと言って、その御安眠を護る為に、農民達が交代で、夜ツピで、池の水面を叩いて、カワズの鳴く喧しさを抑えねばならなかったと言うような事実、それは旧制度 Ancien re’gime. の下では、確かにあったであろう。然し、そうした人間蔑視にのみにフランス革命の原因を求めることも、出来まい。
「人民は殆ど才知を持たないが、お偉方には魂がない。」
とラ・ブリュイエールは指摘した。特権階級は頽廃しており、根源的な生命力、道徳的な魂は粗野な人民のうちにあるというのである。
 そうした人民が貧困化して立ち上がっただけでは革命とはならない。支配階級と対抗して、経済的にも知的にも簡単に押しつぶされないだけの実力を蓄えた階層が、これと同盟する必要がある。
 フランスのブルジョワジー Bourgeoisie. は、勤労と知的活動によって自信と自覚を高め、改革への意志を強めつつあったが、これが一般大衆の貧困化と不満に自己を結びつけたとき、初めて革命は現実の日程にのぼるのである。そしてその際、貧しい農民は、都会の貧しく、一日に16時間という過重労働を課せられていた職人達とともに、革命を推し進める巨大なエネルギーとなるのである。
 一般に革命というものは、社会の矛盾が激化し、多数の人々が現在の制度に不満をもち、一挙にこれを破壊しようとするときに起こるものである。然し、それが単なる一揆に終わらず、革命として成功する為には、大衆のエネルギーの爆発だけでは足らず、これを知的に指導する思想がなくてはならない。然も、その思想が思想家の頭脳、乃至は、著作の中にある限り、それは指導力を持ち得ない。その思想が既に多くの人々のうちに宿り、其の人々の行動を規制しうるようになっていなければならない。フランスのブルジョワジーは、ルネサンス以後、次第に思想的訓練を経て、そうした役割りを果たし得るまでに成長していたのである。そして、彼等の知的活動と人民の巨大なエネルギーの結合として、フランス革命が起こったのである。それでは「知的活動」とはなにか、言うまでもなく、啓蒙思想の運動である。



 
0040 「経済の発展とブルジョワジーの成長」  

 革命が勃発した18世紀、特にその後半は、よく誤解されているように、経済の衰退したときではなく、急速に成長した時期である。イギリスに於いては、「囲い込み」に発した社会変動は、都市への人口の流入を起こし、蒸気機関の発明に見られる生産手段の変革、巨大化するであろう産業資本の発生が見られる所謂産業革命が進んでいた時代である。産業革命には立ち遅れたフランスではあるが、其れだけに社会の変革は急進的となったと言えよう。こうした経済成長を踏まえてブルジョワ階層はいよいよ有力な大きな社会の構成階層となった。フランス革命は、平等がスローガンの一つになってはいたが、所詮ブルジョワ革命であった。サン・キュロットは革命の急進的なエネルギーになったが、終局的には捨てられてしまった。バブーフの登場も時期尚早、後にレニーンに褒められたにすぎない。ナポレオンも革命の子であったろうが、共和国の皇帝は、国内的には、ブルジョワジー社会を安定させる役目を果たした者であった。
 上層ブルジョワジーは、財政家、貿易商、大地主などで、彼等は絶対王政の特権に寄りかかってはいたが、その生活態度や思想では、最早古い伝統に縛られてはいなかった。例えば、国家から間接税の取立てを請け負って100%以上の儲けを得ていた「徴税請負人」と言う者もあった。
 金持達の妻は、夫々、学者、思想家、文学者を集めて談笑するサロンを開いて、パトロンの役割りを果たしたが、こうしたサロンが革命を招きよせる啓蒙思想の温床となった事は、歴史の非直線性を象徴すると言えよう。
 彼等は経済政策として「自由放任 Laissez-faire. 」を求めはしたが、絶対王政という社会の仕組みそのものをひっくり返そうなどとは、夢にも思わない穏健派であった。



 
0041 「農民の悲惨さ」  

 当時の農民達の悲惨な生活に就いては、イギリス人アーサー・ヤングの旅行記、その他に多く示されている。裕福といわれる北フランスでさえ、瓦葺の百姓家は四分の一以下、普通の農家は草で屋根を葺き、家の中は居間と馬小屋と脱穀場の三つに過ぎず、農民のあるものは、其処が暖かいと言うので、馬小屋で冬を過ごす者もあった。窓にガラスを嵌めるのは、全くの贅沢とされていた。彼等は靴や靴下は勿論、木靴(サボ)すら履いていないことが多かった。小麦は地代として納入し、自分達はライ麦、大麦、カラス麦等を食べ、肉は日曜日とお祭り以外にはなかった。そして彼等の平均寿命は25歳を越えなかったと報告されている。



 
0042 「生かさぬよう、殺さぬよう」  

17世紀の名宰相リシュリューの言葉がある
「百姓は騾馬(らば)に比較すべきである。彼等は重荷に馴れているので、あまり長らく休ませると駄目になる。」
 徳川時代、封建制創出の知恵袋、本多佐渡守は言った
「百姓は生かさぬように、殺さぬようにすべし。」
言葉は異なるが、封建的支配者の考える事は、何処もおなじである。
 ルソーは放浪時代に、或る百姓家に入っていって、金を出すから食事をさせてくれと頼んだことがある。最初出されたものは、薄い牛乳と粗末な大麦のパンだけであった。然し、やがてルソーが真っ当な人間だとわかると、小麦の黒パンや葡萄酒、オムレツまで出してくれた。それは農民達が、役人だとか、税務官を怖れて、税金怖さにそうしたものを隠して、かつかつ生きているという風を装わなければならないからであった。そこでルソーは言う
「それこそ、不幸な人民を苦しめる悪政に対し、また、圧制者に対して、その後、私の心に燃え上がった、消える事の無い憎悪の念の芽生えであった。」



 
0043 「富農・中農・貧農」  

 農民は、領主に地代を払わねばならない。その割合は、或る文書によると、12束の小麦を収穫したとして、領主に納めるのが3束、教会へ1束、国税に2束足らず、残りから来年播く種として2束、耕作の費用に3束とすると、手元に残る純益は1束に過ぎないと報告されている。この割合が変わらなければ、農民が如何に汗水たらして収穫率を倍にしたところで、貴族や領主を肥らすだけのことで、手元に残るのが2束になるに過ぎない。この数字は自営農民に関することで、18世紀になると、最早「農民」と言う一つの言葉で纏める事が出来る階層はなくなっている。つまり、富農、中農、貧農と言うように分化が進行していたのだ。
 富農層の要求は、ブルジョワの要求と略同じと見てよい。あまり急進的な改革は、寧ろ恐れるのである。
 封建制に直接敵対するのは、幅広い中農層であった。彼等は領主の特権の完全な撤廃と、人間としての権利の平等を望んでいる。上からの圧迫も搾取もなく、自由で平等な小生産者達が構成する社会、これが彼等の夢である。
 フランス革命の前、貧農農民が自立できるためには、約5ヘクタールが必要だったとされるが、北フランスなどは、2〜300ヘクタール以上を持つ富農も稀ではなかったが、一方では1〜2ヘクタールの土地しか持たない者が多く、更に全然土地を持たず、日雇い労働で辛うじて生きる者も多かった。



 
0044 「敵の中に味方がいる」  

18世紀のフランスは、ヨーロッパ諸国の中で最も社会矛盾の激しいところであった。そして、その矛盾は、最早旧来の思想では処理できないところまできていた。この社会が新しい思想を要求したのであり、国民の中の最優秀分子が、この現実の課題に答えようとしたところに、啓蒙思想は生まれたのである。
そして、それが立派に成長出来たのは、絶対王政と結びついたカトリック教会が、イエズス会派、ジャンセニスト派、オラトーワル派などに分裂対立していた上に、内部では高位聖職者の特権意識と、下層階級の生活を知っている下級聖職者との間の意識の開きが激しく、新思想に抵抗、圧殺出来るほどのエネルギーを最早持たなかったこと、また、新興ブルジョワ階層が啓蒙思想を育成し得る程に有力なものになっていたことが大きな理由であった。特に注意しておきたいことは、革新思想を取り締まるべき権力側の内側に、革新思想の保護者や同情者、更には同調者が生まれてきたことである。

ルイ]Xの愛妾ポンパドゥール夫人(Dec.29.1721〜April.15.64.)
Madame Marquise de Jeanne Antoinette Poisson Pompadeur.
(美人、才色優れ、社交界の女王となる。ヴェルサイユ宮殿に住んで政治に干渉し、オーストリアと結んで、七年戦争ではプロシャと対抗した。)
 彼女は堅苦しい説教をしたがる坊主がもともと嫌いであった。彼女は軍需商人の娘、もとは徴税請負人の妻であって、どこかに新興ブルジョワ階級の意識を持っていたに違いない。このため、彼女には僧侶によってフランス文化が指導されている現状が時代遅れと感じられていたと見られる。だから彼女は、ブルジョワ的近代合理主義思想を盛り込んだ『百科全書』の出版が、反動派によって弾圧されようとしたとき、これを執り成すために宮廷工作をしたのである。その美貌によってルイ]Xを20年にわたって完全に虜にし、大臣の任命にすら口を出すこの美人の工作がどれ程有力であったかは多言を要しないであろう。マダム・ポンパドゥールの主宰するサロンの政治上の影響、そしてフランス革命に与えた影響は絶大なものであった。



 
0045 「サロン Salon」  

 啓蒙思想は、まだ薄暗がりであった社会に差し込んだ理性の光であったと言われた。それは其の通りであったが、其の事から、これらの思想をあまり堅苦しいものと受け取っては間違いであろう。それらには、合理主義の骨組みが固く通っている。然し、其の肉着きは柔らかなのだ。啓蒙思想家の多くは、貴婦人の主宰するサロンで歓迎される花形であって、彼等の思想は、其処での談笑のうちに形作られた。ルソーの場合のように孤独な瞑想からではなく、多くの人々との会話が発想のもとであったと言う事は彼等の思想に平明さとゆとりを与えている。
 フランス名物のサロンは、17世紀のランブイエ夫人のものが最初で、他にはスキュデリー嬢のものなど沢山あったが、18世紀になるとメーヌ公爵夫人のが最初である。貴族的なサロンで、モンテスキュー、マリヴォー等が出入りし、ヴォルテールはここで『ザディーグ』を発表した。更に男出入りで有名で、大物理学者ダランベールを生んでこれを捨て子したタンサン夫人のサロンや、チュルゴー、コンドルセ、ヴォルテール等が出入りしたデュ・デファン夫人のサロンがあった。ジョフラン夫人のそれは哲学サロンと言われ、ダランベール、コンディヤック、エルヴェシウス、マルゼルブの他、イギリスの名士達、ギボン、ウォルポール、ヒューム等も出入りした。『百科全書』の女神と言われたダランベールの愛人、レスピナス嬢、ディドロ、ルソー等が出入りしていたデピネ夫人等のサロンも有名であった。
 ジョフラン夫人は小役人の子だが、その美貌をみそめられ、14歳で48歳のブルジョワと結婚した。相手の男は、ガラスのマニュファクチャの会計課長に過ぎないが、金持ちの老婦人と結婚して、その莫大な遺産を持っていたのだ。彼は妻の主宰するサロンにいつも出席していたが、名士達の前では何も喋れなかった。お客達は、この爺さんが美しいジョフラン夫人の夫とは殆ど知らなかった。ある夜、何時も座っていたあの老人の姿が見えない。そこでお客の一人が夫人に、「あの方は?」と聞いた。サロンの女王は答えた「あれは、宅の主人でしたの。死にましたわ。」



 
0046 「カフェの誕生 Cafe」  

 サロンはもともと貴族夫人の独占だったが、18世紀後半になって、例えばジョフラン夫人のような上層ブルジョワの女性が、これを主宰するようになった。
 然し、サロンは上流的、貴族的な趣味をあくまで失わなかった。これに対して、市民達の社交の場としてカフェが栄えるようになった。
 フランスでカフェが始めて出来たのは1654年だが、やがてコーヒー(フランス語では Cafe カフェ)という飲み物がパリで流行し、カフェが増える。ここでは、そう金がかからなくて新聞が読め、色々な噂話を聞き込むことも出来、トランプ遊びやチェスがやれる。当時「ル・プロコープ、Le Procope.」という店が有名で、18世紀にはヴォルテール、ディードロ、ジャン・ジャック・ルソー、ナポレオンなど、19世紀にはジョルジュ・サンド等が常連であり、沢山の文士が出入りした。この店では、当時大変珍しい、新しい飲み物「アイスクリーム」が作られて売り出され、パリで大評判のカフェとなった。(やがて革命の指導者となる連中も、若いころカフェで遊び、アイスクリームを舐めながら政治談議に花を咲かせたのではないだろうか。この Cafe は現在も、もとの場所でレストランを開いている。場所は地下鉄 Metro のOdeon 駅下車1分の所にある。)弁護士見習い中のダントンが夕食後、仲間とドミノの勝負に興じたのもカフェで、彼は其処の人気の中心であった。後のことだが、革命が起こると、カフェは民衆の政治的な集会の中心となった。民衆は其処で情報の交換を行いつつ、お互いに政治的に教育されていくのであった。
 アーサー・ヤングによると、1789年7月4日、地方都市シャトー=チエリーには、新聞を置いたカフェーは一軒もなく、ディジョンへ来てやっと一軒だけ。 そうした所で新聞を見つけるには、象を手に入れるより難しかったと言う。18世紀、結婚の際、自分で署名の出来た者の比率は男47.05%、女35.86%程度であったらしい。(文盲率、ロシア革命の時,約80%、中国革命の時約85%)
 尤も、これは都会だけの話しで、農民達は当時まだ砂糖、チョレート、馬鈴薯など、殆ど口にすることはなかった。ジャガイモはアメリカから輸入されていたが、毒があるという迷信が広がって、それが食糧飢饉の解消を妨げた。農民は自分達の造るブドウ酒もあまり飲まず、昔の日本同様、水飲み百姓であった。人口が増えたといっても、当時のフランスには10万人以上の都会は2つしかなかった。凡そ人口80万のパリと、14万のリヨンだけである。徳川時代の江戸の人口は約100万であった。フランスが農業国だったと言うことが、これだけでもはっきりするだろう。

<無駄口>
 サン・ジェルマン・デ・プレ St.Germain des Pres. にはパリで最も古い教会 Eglise St.Germain des Pres. がある。この教会にはデカルトが埋葬されている。教会を中心にお洒落な文化的な街が広がる。
 サン・ジェルマン・デ・プレ駅を出たところに2軒のカフェ、文学カフェと言われるカフェ・レ・ドゥー・マゴとカフェ・ドゥ・フロールがある。かつてサルトル、ボーヴォワール等、実存主義者の溜まり場であった。教会からその前の道を右に行けば国立美術学校 Ecole Nationale Superrieure des Beaux Arts.を経てセーヌ川に出る。美術に関する店などもあり、静かな落ち着いた街並みである。セーヌの向こう岸はルーブルである。
 サン・ジェルマン通りから南側はブッティク街である。サン・ジェルマン・デ・プレ教会の斜向かいの道、レンヌRennes通りを中心に、ボナパルトBonaparte通り、フールFour通り、ドラゴンDragon通り、グルネイユGrenelle通り……お洒落な店が並ぶ。
 ドラゴン通りとグルネイユ通りの交差点からシュルシュ・ミディCherche Midi.の通りに入るとカジュアルな靴屋があり、靴屋に交じって美味しいパン屋がる。ボワラーヌである。わざわざ遠くから買いに来る。パン・ア・ラ・カンパーニュは一番の人気である。



 
0047 「感傷の世紀」  

 18世紀は「理性の世紀」であると同時に、また「感傷の世紀」でもあった。革命前のフランスを知るためには、理性的な啓蒙思想だけでは充分とは言い得ない。
 世紀のベストセラー『新エロイーズ』は、サン・ブルーという平民と貴族の処女ジュリーとの間の甘美な恋愛を感傷的な筆致で描き、純粋な恋愛至上主義を唱えたものだが、これがあのように愛読されたのは、その平民主義と、そこに盛られた社会意識の為だけではなく、寧ろ当時の社会に満ち満ちていたセンチメンタリズムの要求に応えた点が大きかったのである。政治的解放は長く待たねばならなかったが、教会の権威の失墜に伴って、また啓蒙思想の中心課題である幸福の追求が部分的に先走ったものとしての、セックスの解放は、この世紀の特色であった。
 哲学者ヴォルテールは、軽妙で、ときにいささか猥褻な機知をもって知られたが、『ソファー』などの好色物の作者クレビヨン・フィス、わが国でも裁判沙汰になった、『悪徳の栄え』『閨房の哲学』等の作家サド侯爵らも、この時代に人気を博した人物である。サドは変態的な不道徳作家と見られがちだが、その宗教的批判の厳しさをみても、彼が啓蒙時代の子であることがわかる。「両脚動物である不幸な人間は、彼を操っている神の気紛れによって、永久に弄ばれている。」そうした人間に、神の掟をどう解釈すべきかを教えるのが、自分の閨房哲学の功績だというのである。
 またこの世紀の後半に、自分も印刷屋に勤めながら、2週間に1冊というスピードで40年間、小説等を書きまくった男がいた。女の穿き物を見ただけで情欲を覚えるという変態男だが、「下水のルソー」とあだ名されたこの作家レチフは、「快楽とは、陽気な名で呼ばれた美徳のことだ」と公言する。
 其の頃、グルノーブルの駐屯部隊で、一人の才知に富む砲兵将校が暇にあかせて詩などを作っていたが、やがて一冊の小説を書く。『危険な関係』。 作者はラクロ。スキャンダルを起こしたこの肉体文学の内容を語ることは止めておくが、この作者は革命の勃発と同時にジャコバン・クラブに入り、「憲法の友」新聞を発行したりするが、やがてオルレアン公は輩下の陰謀家として暗躍する。有名な女達ばかりヴェルサイユ行進を着想したのは、彼だとも言われる。サド侯爵もレチフも、やがて革命に同調参加するが、このように革命期に政治指導者として活躍した人々で、革命前に文学活動している人の多いのは驚くほどである。
 「恐怖政治の大天使」と恐れられたサン=ジュストLouis Saint-Justは、革命勃発直前に『オルガン』という長編詩を発表するが、これは尼僧院での強姦、獣姦等も出てくる。 猥褻にして破壊的な作品で、一脈サドに通じるものがある。ロベスピエール Maximilien Robespierre、国民軍の創設者カルノー Lazare N.M. Carnot、陰謀の巨魁フーシェ Joseph Fouche(「変節の政治家」の代表)、この三人はアラスの文芸クラブで、仲良く一緒に詩を作ったり、話したりしている。ミラボーもナポレオンも、マラーもセンチメンタルな小説を試みている。怠け者のダントンは何も書いていないが、その片腕ファーブル・デグランチーヌは、詩人として名をあげていた。
 政治目標がはっきりしていて、しかも実現の可能性があるとき、又は既に達成された政治目標を援護するためなら、政治と文学とは直結し得るであろう。然し、革命前のフランスのように、不満に満ちてはいるが、それを如何にして革命イネルギーに組み上げるかは判らない状態、つまり、啄木の言葉を使えば、「時代閉塞の現代」の中では、人々はただ既成道徳、特に性道徳の破壊を目標とし、好色文学に赴いたことは理解できる。彼等は革命の鐘が鳴ると、総て革命の戦士に転化するが、それは勿論便乗ではない。転機を掴んだ入信である。神に接して回心するのと同じ心理が、そこにはあったであろう。感傷的乃至頽廃的な文学もまた、啓蒙思想とともに、絶対王政の基礎を揺り動かし、革命を招き寄せたものと言えるだろう。



 
0048 「フィガロの結婚」  

 フランス革命の前、ブルボン王朝に末期的症状が現れてきた頃、政治と文学とを一番密接に結びつけたのは有名な『フィガロの結婚』であった。 作者ボーマルシェはパリの時計師の出身だが、金で官職を買って貴族にもなっている。 乱世の図太い生活者の典型とも言うべき男で、投機師、出版屋、陰謀家、スパイなど、あらゆることに手を出し、革命が起こると、彼もまた一応これに同調するがやがて睨まれて国外に逃亡したと言う経験も持っている。

(註) Pierre Augustin Caron de Beaumarchais.1732〜99
 ルイ15世の知遇を得たり、アメリカ独立軍に武器を供与したり、当時の裁判の弊害を訴えたりして、政界、実業界、演劇界で活躍、特に75年「セビリアの理髪師」更に84年「フィガロの結婚」を発表している。旧制度のもとで腐敗した貴族を鋭く風刺した劇で、ルイ]Yから上演禁止の処置を受けた。主人公フィガロは当時の庶民を象徴していると思われる、やがて来るフランス革命を暗示している。

 日本でも上演されているこの陽気な恋愛劇の筋書きは省略するが、そこには恋愛と政治が絡み合い、特権階級を愚弄した台詞が鏤められている。
例えば、フィガロの台詞
「貴方は大貴族だから、ご自分を大天才だと思い込んでいらっしゃる!貴族の称号、財産、身分、地位、こんなもので、とっても威張っていらっしゃる! だが、貴方はそんなに沢山の結構なものを手に入れるために、いったい何をなさった? 生まれるという苦労を舐めただけで、それ以上は何にもない。それに、当たり前の人間に過ぎない。
 ところが、名もない大勢の間に埋もれたおれさまなんかは、かつかつ生きるためだけでも、スペインを百年間治めるのに必要とする以上の知恵と策略を使わなきゃならない。」(第5幕、第3場)
また
「出世に才知が要るって? ぼんくらでも、へいつくばっておりさえすれば、人間、何にだってなれまさあ。」(第3幕、第5場)
 凡庸とはいえ、絶対君主のルイ]Yが、こんな芝居の上演を禁止したのは、寧ろ当然だ。ところがボーマルシェは巧みに立ち回ってサロンの貴婦人達の前で脚本を朗読するまでにこぎつけた。
「ちょっとした文章を恐れたりするのは、狭い心の持ち主だけさ。」
等という台詞があるものだから、上演反対を言うのは、インテリ面(ツラ)する人には辛いことになる。一旦決まりかけた上演が国王の命令で禁止されると、大衆の抗議は暴動化しそうな勢いになる。その際、上演を一番熱心に推進したのは誰か。実に王弟アルトワ伯爵と王妃マリ=アントワネット Marie Antoinette,1755〜1793 であった。王妃は宮廷のなかで自分が主役を演じて、これを上演したいとまで考えた。気の弱いルイLouis ]Yは、ついに折れて、1784年4月27日初演されたが、超満員で観客が三人踏み殺された。
 王妃の「フィガロの結婚」支援は、「百科全書」出版が反動派によって弾圧されたとき、マダム・ポンパドールが宮廷工作した場合とは意味合いが異なる。マダム・ポンパドールは宮廷で大きな影響力を持っていたとはいえ、国王ルイ]Xの愛妾に過ぎない。然し、マリ=アントワネットMarie Antoinette は、ハプスブルグHapsburg家をブルボン Bourbon 家に結合した王妃である。オーストリアの女帝マリア=テレジア Mria Theresiaの娘が此処フランスに来たのである。ルイ]Yが、空洞化した王権の無気力の象徴であるなら、その王妃マリ=アントワネットは王権を頂点とした、宮廷並びに上層貴族階級の堕落の象徴と言える。派手好きで落ち着きのないこの女性は、有閑貴族の集うヴェルサイユ世界を敏感に反映して堕落したに過ぎない。この二人の俳優ルイ]Yとマリ=アントワネットとは、歴史の女神の呼び出しに応じて、自分の意思を越えて役割を演じたのである。
 「フィガロの結婚」の最後の台詞は、「総ては歌で終わる」となっているが、革命が始まると観客達によって「総ては大砲で終わる」と作り変えられ、絶大な人気を博することになる。
 ルイ]Yは、この上演をせがまれて断りきれなくなったとき、愛妃に言った。
「それじゃ、バスチィーユを潰さなければならないことになるのかね。」何という象徴的なセリフ!



 
0049 「絶対君主は難しい仕事」  

 宮廷貴族と高位聖職者の群れが集まる華やかなヴェルサイユ、美しい宮廷服を着せた3〜4000の従者を従え、常に2000頭の馬を用意する宮廷の中心をなし、頭となるのは、言うまでもなくブルボン王室である。形式上は、革命時のルイ]Yも絶対君主であって、国内のあらゆる権力は、彼の手中に握られているはずである。責任内閣制、或いは議会制度によって支えられた君主と違って、アンシャン・レジームの絶対君主の職務は容易ならない仕事である。
 ルイ]Wは、ルーヴォアとかコルベールとかいった優秀な大臣を従え、片足に貴族階級、片足にブルジョワ階層を踏まえ、その均衡の上に見事に絶対王政を運営したが、彼の治世は統制のとれた、然し、苛酷な政治であった。だから「太陽王」と異名されたこのルイ]Wが死んだ時(1715)、朝野をあげてホットした。モンテスキューは言った。
「今は亡き王の治世は大変長かったので、その終わりは始まりを忘れさせる程だった。」
 その後を継いだルイ]X(在位1715〜1774)も、初期は政務に熱心であったが、祖父ルイ]Wのように、自ら最高権を握るというのではなく、ブルボン公爵、フルーリ枢機卿、ショワズール等に実権を握られていた。
 このように、絶対君主の仕事は、丈夫な身体と強い精神なくしては勤まらないものなのだ。プロシャのフリードリッヒUは、毎朝4時には起きた。やがて登場するナポレオンTは、一日18時間執務したと言われている。
 ルイ]Y(在位1774〜1792)はそうした才能を持たず、極めて凡庸な人物に過ぎなかった。優れた国王ルイ]Wも色を好んだが、ルイ]Xはポンパドール夫人、デュ・バリー夫人といった愛妾のほかに、人民のなかから美貌の小娘を探し出させて、有名な「鹿の園」と呼ばれるハレムを作って楽しみに耽った。ルイ]Yは、そうしたブルボンの好色的伝統に背き、政略結婚の道具として祖父から与えられた王妃マリ=アントワネット(1755〜1793)一人を一生守って満足したと言う。寧ろ実直な鈍感な良き人柄であった。階級矛盾が、いよいよ激化し、又宮廷そのものが陰謀と腐敗の舞台となるとき、この鈍重な君主にとっては、手を拱いて、立ち尽くす以外に道はなかったのではなかろうか。



 
0050 「ルイ]Yの毎日」  

 当時の国王はどんな生活をしていたのか。一口に言えば、彼は宮廷という華やかな舞台に踊らせられる一個のロボットに過ぎない。
 朝、彼は定められた時間に侍従に起こされる。すると5組の人々が次々と現れる。先ず王族、つまり王子、親王、親王妃及び侍医頭等が挨拶する。次に侍従長、宮廷の長官達、オルレアン公、三人の叔母殿下、それに若干の寵愛深い貴族達。次に理髪師、衣装師等が現れる。この間、国王の手にある銀の小皿の中に酒精が注がれ、聖水盤が差し出され、彼は十字を切って祈りを捧げる。そこで彼は皆の見る前で寝台から出て、靴を履く……。
 朝見の儀はまだまだ続くが、もう訳出するのもうんざりだ。それが済むのが11時過ぎ、それからどのように一日が過ぎるのか。来る日も、来る日も遊楽の連続だ。王妃マリ=アントワネットは、「私は退屈が怖いのです」と言ったが、これ程的確にヴェルサイユの精神を捉えた言葉はない。彼女の残した手紙を訳してみると
「午後1時、お昼を済ませてから、夜中の1時まで、私は部屋に帰ることがありません。昼食の後は6時まで遊び、それから芝居を見ますが、それが9時半まで。それから夜食。そして1時まで、ときには1時半まで勝負事」
といった按配である。これも実は掛け値があって、王妃はバクチ遊びが過ぎて、朝の4時、5時に帰ることも少なくなかった。
 勿論こうした有閑生活の中には、類例のない洗練された趣味があった。
「1789年前に生きたことのない人には、人生の甘美さはわからない。」
とタレイランが言っている。
 ルイ]Yは不器用でダンスも出来ず、ハデなことは、あまり好きではなかった。彼の趣味は小さな工房で錠前屋の師匠ガマン相手に、自ら錠前を作ること(このことが、後で彼の命取りの一つになるのだが)であった。他には狩猟である。学者の計算によると、革命の前まで、彼は三日に一度の割合で狩をしている。ルイ]Yの日記が残っているが、彼は狩猟しなかった日には「何もなし」と書いている。
   1789年 7月11日 何もなし。(ナッケルが追放された日である)
        7月13日 何もなし。
           14日 (空白)
              (この日はバスチィーユ監獄が民衆に奪われ、大革命勃発の日である) 
        8月 4日 マルルーの森に鹿がり。1頭を得る。往復とも乗馬。
              (国民議会 Assemblee nationale. で封建制廃止の議決が行われた日)
       10月 5日 シャティヨン門に狩りし、81頭を得たが、事件のために中断される。往復乗馬。
              (事件とはパリの婦人が主体であった民衆がヴェルサイユ宮殿に押しかけ、
               所謂ヴェルサイユ進撃があり、王室がパリに移されたことである。)
 こうした国王の生活は、どれ程の金がかかったのか。ルイ]Yの年収は、およそ4億7700万リーヴルだったといわれる。当時の労働者の年収は凡そ400リーヴル程だったことを考えて見るとよい。(一般勤労者の約1,192,500倍)
 浪費家中の浪費家と言われた王妃マリ=アントワネットの乱費癖は史上有名であり、詳しく述べることは避けるが、彼女が夫からもらって住まいとした小トリアノン宮の支出だけで凡そ165万リーヴル(一般勤労者の約4,125倍)とされている。やがて彼女の贅沢好みが利用されて、例の「首飾り事件」となったスリル満点の大詐欺事件に巻き込まれたため、全く国民の信頼を失うことになるのだが、その詳細はとても此処では述べ尽くせない。興味ある人は、シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig. のマリー・アントワネットを読んでほしい。



 
0051 「王室の空洞化」 

 こうした浪費、堕落の生活が国民の反感を買ったことは当然だとしても、せめて王室内だけでも結束していれば、まだしも嵐に耐えやすかったであろうが、此処にも分裂が見られる。
 即ち、常に王位を狙う野心家オルレアン公爵(1749〜93)は、事毎にルイ]Y夫妻の信用を失わせるような陰謀を企んだ。やがて、革命が勃発したとき、彼は自ら「平等公」と改名して大衆に迎合したが、後にギロチンにかけられることになる。 二人の王弟すら、決して国王に協力する意志はなく、三人の叔母殿下も容易に陰謀に巻き込まれるのであった。乱費、陰謀、腐敗、今や「宮廷は国家の墓場となった」とダルジャンソンが嘆いたのも、「宜なるかな」である。
 ルイ]Wの名声は得られたが実利の取れない戦争の連続、それによってヴェルサイユはヨーロッパ社交界の華となったが、国家財政への傷は大きくなった。ルイ]Wは亡くなる頃、ルイ]Xを枕辺によんで、「戦争はするな」と言い置いたと伝えられている。そのルイ]X時代にも次々と戦争をして失敗し、イギリスから不利な通商条約を押し付けられ、植民地の多くを失うことによって※、宮廷は次第に心ある国民の信頼を失いつつあったが、一般大衆は、なおブルボン王朝への愛情を失わず、国王が何時かはフランスを立派にしてくれるに違いないという希望を持っていた。 然し、その対象たる王権は、虚しい形式として全く空洞化していた。それが暴露されるとき、ブルボンは一挙に崩壊することになる。
※ 例えば1756〜63 英仏間の植民地7年戦争(フレンチ・インディアン戦争)
     1759 キベロン湾の海戦 フランス艦隊、殆ど全滅
     1770 東インド会社解散