早坂勝の食文化講座

 私は、1939年生まれの料理人(西洋料理)である。
 私は、料理という世界で様々な国の料理人と交流してきました。
 ただ、ひとすじの道を歩いてきただけのことに過ぎませんが、料理という文化を通して世の中の移り変わりを見つめてきたことの一環を食文化講座として掲載いたします。


− ソース編 −


0001「醤油の話」 

  醤油、むらさき
  中国語、 醤油  [ツィヤンユー]
  英語、 Soy [ソイ] Soya[ソヤ] 
  仏語、 Sauce de Soja[ソース・ドゥ・ソジャ]
  独語、 Soja[ソヤ]

醤油はソースの一種である。
 料理にはその料理特有の優れたソースを使用しているのが普通である。
 たとえば、グラタンという料理にはベシャメル・ソースがよく合い、パスタにはトマト系のソース、ローストビーフには、グレビーソースがある。
 一つの料理に合うソースはそう多くはない。
 ところが、醤油は、魚料理、肉料理、野菜料理すべてに合う珍しい調味料である。フランス料理の調理法のポワレ(蒸し煮)、ソティ(炒め焼き)、フライ(揚げ物)、ロースト(蒸し焼き)、ヴァプール(蒸し)、グリル(網焼き)、ボイル(茹でる)やサラダに使用するドレッシングなどすべてに合う優れたソースとして世界的なものが醤油である。それでは、その歴的背景を覗いてみよう。

醤油の歴史
 西暦300年(応神31年)応神天皇時代、朝鮮半島からの渡来人が須恵器(土器)造りを行っていた。同時に、酒、酢、鮨などの発酵食品を作り食べていた。
 奈良時代、中国から醤(ひしお)が伝えられ草醤(くさひしお、後の野菜の漬物)、魚醤(うおひしお、後の塩から)、穀醤(こくひしお、後の味噌、醤油)と呼ばれる。
 こうして、醤は、塩漬け発酵食品として日本にはじめて登場するのである。
 927年(延長5年)、「延喜式」の中に穀醤(味噌)の原料として大豆、米、小麦、酒、塩などが記載されている。後の醤油の前身である溜り醤油らしきものが登場する。(延喜式とは平安初期の宮中儀式や行事を記録したもの)
 1227年(安貞1年)、中国の宋に留学していた「道元」和尚が帰国し精進料理を伝え寺院を中心に寺方料理として発展する。後に道元は曹洞宗の開祖となる人である。(味噌、溜まり醤油らしくものを使用する)
 1228年(安貞2年)、後堀川天皇時代に中国の宋に留学した覚心禅僧が帰国した。覚心禅僧は、中国の径山寺で味噌製造法を取得して、日本に帰国、本格的な味噌製造を伝え、その製造過程で溜り醤油が出来あがる事を知るのである。
 これが最初の溜り醤油であるといわれている。
 1535年(天文4年)、赤桐右馬太郎が径山寺の味噌の製造法から湯浅醤油を製造した。
 1558年(永録16年)、下総国野田の飯田市郎兵衛が溜り醤油を製造し後の野田醤油となる。後に甲斐の武田信玄の御用達となり「川中島溜り醤油」名で納めた。(川中島の戦いが有名)
 1574年(天正2年)、下総国市川に近江の国、国辻釜屋の一族、田中長兵衛が住み醤油製造を始める。
 1587年(天正16年)、播州竜野で円尾孫右衛門が醤油製造をする。
 1589年(天正18年)、横山五郎兵衛宗信が醤油製造を行なう。
 1591年(永録19年)、紀州藩が醤油の販売を始める。
 関東の野田、銚子、日立の土浦、相模の小田原、関西では備前の八浜などの醤油が有名で江戸時代に完成される。
 1668年、中国の清朝が内乱となったことに伴い、中国とヨーロッパの陶磁器交易が一時途絶え、オランダ東インド会社は、日本に陶磁器を求めるのである。長崎の出島を中心にした有田の陶磁器が伊万里の港から出荷される陶磁器が伊万里焼としてヨーロッパに輸出されるようになる。
 後に、中国と伊万里からヨーロッパへの海上ルートをセラミックロードと呼ばれる交易を行った。こうした中、出島からの貿易は陶磁器だけでなく日本の薬草や酒や醤油も輸出され、特に、12樽の醤油がヨーロッパに輸出したと記録が残されている。当時、セラミミックロードを利用して醤油交易を行っていた商人のことをコンプラ仲間と呼んでいた。
 また、輸出用の酒や醤油専門の陶磁器の壷は九州の波佐見焼で製造されていた。この波佐見焼きの壷をコンポラと呼んでいた。
 この壷には「JAPANSCHZOYA」と書かれJAPANSCHは日本を表わしZOYAは醤油である。
 こうして壷に入れられた醤油が輸出されヨーロッパで使用されフランスの太陽王と呼ばれるルイ14世(1638―1715)時代のベルサイユ宮殿で繰り広げられた晩餐会に醤油が使用されていた事は明らかである。
 さて、醤油は、大豆[Soy beans]と米麹を原料にして発酵させ醸造した調味料であり、醤油は、日本を代表するソースの一種である。
 江戸時代からヨーロッパの人々が日本の醤油に気がつき貴重なソースとして輸出されていた。歴史的には、奈良時代に中国から伝えられたもの中に穀物を原料とした塩漬けの一つで穀醤として伝来した。
 この穀醤は、元々、味噌を造ることであったが、その製造過程の中で味噌の表面に溜まる溶液を漉して溜まり醤油として使用するようになった。
 これが、醤油のはじまりであるといわれている。
 やがて、醤油の種類も、タマリ(溜り)、濃口醤油、淡口醤油の3つに分類され料理により使い分けをするようになった。



 
0002「ソースの話」  

1.ソースの原点は魚醤である。
 古代ギリシャや古代ローマの調味料に魚醤(ぎょしょう)がある。魚醤は、古代のソースで、ギリシャ語で、Garum[ガルム]ラテン語のLiquamen[リクアーメン]と呼ばれる魚で造ったソースである。材料は、カタクチイワシ、イワシ、サバ、マグロ、魚の内臓、血液、甲殻類などをアンフォラ(素焼きの壷)に入れ塩漬けにする。時々かき混ぜ太陽に当てると、2−3ヶ月ほど置くと醗酵し熟成する。これを漉した液体がガルム(魚醤)である。
 また、残りの魚介類をallec[アレック]と呼び調味料の一部とした。
 これが、西洋料理のソースの原点である。(詳しくは、後で述べる)

2.ソースとルーの違いを御存知ですか。
 テレビで放映される料理番組で私が最も気になり、恥ずかしいと思うことがある。ソースの概念に乏しいタレントや理解しない人がいることである。
その端的な例を挙げると、カレーライス、カレー料理、または、その他の料理でソースという表現をルーと表現していることである。この間違いがかなりある。正しいルーとソースの違いを述べておこう。
 Sauce[ソース]の原型は、魚介類、獣肉、牛、豚、鶏、鴨、野鳥等の骨、肉と香味野菜、ハーブでとる出し汁をブイヨンやフォンといい、それぞれの料理の必要性からワイン(赤、白)を加えて作るのがソースである。したがって、ソースとは液体である。また、サラダやマリネーに使用するオリーブオイル、ヴェネガー(酢)マスタード、塩、胡椒、スパイスで作るドレッシングや卵黄の入るマヨネーズなどがある。さらに、ソースの濃度をだすためにでんぷん質の物を加えることがある。ルーとはこの濃度を出す材料である。
 ルーとは、フランス語でROUXと言う。作り方は、小麦粉と油脂で作る。
 油脂は用途によりバター、マーガリン、ラード、ショートニングなどどれでもよい。厚手の鍋に油脂(小麦粉の半分または同等まで)を入れ溶けた状態に小麦粉を加えかき混ぜソテーする。
 ルー・ブラン[Roux blanc],ルー・ブロン[ Roux blond], ルー・ブルン[Roux brun]という順に焼き色が付く、カレールーは、小麦粉と同じようにカレー粉を加えたものである。用途によりルーの焼き色を変える。これがルーである。
 この状態で味はない。また、ルーをそのまま召し上がることは100%ない。
 ルーはソースの濃度を付ける役目に使用するものである。



 
0003「イギリスのソース」  

 醤油は国際的にはソイ・ソースとして有名である。
 また、Worcester Sauce[ウスターソース]は、日本ではソースの代表的なものとして知られている。
 フランスは、料理の数ほどソースの種類が多いのが特徴である。
 一方、イギリスは極端にソースが少なく、グレビーソース、ウスターソース、A1ソース、アンチョビーソースなどがある。
 こうした事は、味噌、醤油でことがたりる日本料理とよく似ている。
 特に、イギリスのウスターソースは日本の醤油が大きく貢献して出来上がったソースといわれている。
 1800年中期ごろ、インド・ベンガル州の知事をしていたサー・マーカス・サンズが英国に帰国する。帰国後、インドの食文化の影響と自ら体験した香辛料が忘れられず独自にソース製造に取り組んだ。
 しかし、英国でインドの食材を揃えるのが困難なことから主原料を日本の醤油をベースにして、モルト・ヴェネガー(大麦麦芽の麦芽糖を発酵)、ライムジュース、タマリンド、唐辛子、クローブ、ガーリック、シブレット、アンチョビーなどを素材にソース製造を行なった。
 これが、最初のウスターソースで、美食家のサー・マーカス・サンズは知人や友人への贈り物として使用した。
 その後、サンズは再びインドで手に入れたソースのレシピを参考に、彼の故郷イギリスのウスター州の、科学者、ジョン・リーとウイリアム・ペリンズに本格的なソースの製造を依頼した。
 やがて、このソースは、二人の科学者、ジョン・リーとウイリアム・ピリンズの名前を付け、リー・ピリンズソースの社名で外国に売り出されることになる。後にアメリカでの販売に関してウスター州を表わすシャーを付け、worcestershire・Sauce [ウスターシャー・ソース]の名前となり世界的に知られるのである。日本には、明治33年(1900年)に、神戸の安井という人が最初に輸入した記録がある。
 また、製造した二人の科学者、ジョン・リーとウイリアム・ピリンズの名前を付け、Lea & Perrin's Sauce[リーピリン]ソース、リー・ピリンズソースの社名でも知れている。
 後に、日本製のウスターソースであるブルドックソースなどに派生したことはご存じの通りで、明治維新後の日本の西洋料理、トンカツ、コロッケ、エビフライなどに合うソースとなった。

A1.Sauce [エーワンソース]
 A1とは、1820年―30年に、英国のロイズ保険会社が船舶保険のランク付けに用いた記号のことである。
 ジョージ4世時代の宮廷料理長、ブランドが王様のビーフステーキのソースに付けた名前がロイズ社の船舶保険Aランクの1番と同じA1ソースとした。
 素材は、醤油、エシャロット、アンチョビー、酢、香辛料である。
 第一次世界大戦の間、英国からアメリカに輸出され、その後、アメリカの企業家ヒューブライン氏が手がけ、彼のコネチカット工場で製造され世界に広がった。



 
0004「トマトケチャップ、トマトピューレ、トマトソース、の話」  

トマトはナス科の植物
 トマトの原産地は、南米のペルー、ボリビア、エクアドルのアンデス山岳地帯である。トマトは、ナス科ソラナケアエに属し、学名をソラヌム・リュコペルシクムという。ギリシャ語のLycopersicum[リコペルシクム]からきている。Lycos[リコ]は狼を指し、persicom[ペルシコム]は桃の意味がある。狼の桃という意味の野菜はポテト、茄子、ピーマン、唐辛子、タバコなど多年生の植物である。

トマトがヨーロッパへ伝わる
 世界で野生種のトマトは9種類といわれている。
 ガラパゴス諸島に1つ、アンデス山脈、標高1000メートル地域に自生する野生トマトが8種類である。その内、L.チレンセという種類のトマトは有毒で食べられない。また、ケラシフォルメというトマトは糖度6度という甘さがある。当然食べられる。このトマトが後の栽培種トマトの祖先である。
 トマトが高地から低い地域で栽培されるようになり毒素がなくなり自生種から栽培種へと変化した。紀元1000年頃、南米中央地域、グァテマラ、メキシコ南部、ユカタン半島、ホンジュラス北南部、ベリーズ、エルサルバドルにマヤ文明が築かれ16世紀まで続く、この地域の人々の主食はトウモロコシで、また、自然に自生するジャガイモ、トマトを改良し栽培してきた。さらに、現在のチョコレート(カカオ)やガム(サポディラの樹液から採集)もすでに食文化として取り入れていた。1000年ごろにはアメリカインディオがトマトを栽培するようになる。コロンブスの大航海時代以降、1470年ごろ、スペイン、イギリスにも伝えられ、マヤ・ペルピアーナという観賞用として1世紀も続いた。こうした歴史には大きな犠牲と悲劇があった。フランシスコ・ピサロ(1470-1541)の征服者(コルキスタドール)が1521年、スペイン人のコルテス(1485-1547)がメキシコを占拠し、1533年、古代インカ帝国が滅亡する。その後、トマト、トウモロコシ、ポテト、唐辛子(ピーマン)タバコなど、アステカ文明を滅ぼした征服者たちによって新大陸から新しい作物がヨーロッパにもたらされ食文化の中に様々な形で登場するようになる。1550年ごろ、スペイン人がイタリアにトマトを伝える。
 1537年、メディチ家の当主コジモ1世(1519-1574)は植物園で様々な植物を栽培し新大陸のトマトも仲間入りする。トマトは当初、amatula[アマトゥーラ]と呼ばれていた。こうしてトマトがフランスに渡り、また、イタリアで栽培される。17世紀末、オランダ船により日本に観賞用として伝えられる。
1668年、徳川四代将軍家綱のお抱え絵師、狩野探幽(1602−1674年)の草花写生図巻の「唐なすび」はカボチャトマトである。
貝原益軒(1602-1674年)の大和本草の雑草類に唐柿として紹介している。

トマトの語源
 古いコルキスタドールの記録にトマトをXitomate[シトマテ]とある。
 また、メキシコ語にTomatl[トマトゥル]という薄皮に包まれた球形の果実がある。これを乾燥させ唐辛子と混ぜすり潰しソース状にして使用した。
 17世紀、メキシコのナワテル族は食用ホホズキを栽培し呼び名をTomate[トマーテ]と呼んでいた。アズティック文明のZitomatoに由来するメキシコ語Tomatl[トマトゥル]の二つがトマトの語源説である。
 また、ヨーロッパに渡った過程で形や色彩に加え伝播経路や宗教的側面に寄る願望が込められ様々な呼び名が付けられた。
 最初にスペイン人がペルーからトマトをイタリアへ伝え、トマトを黄金のリンゴPoma Peruvianaと呼んだ。
 トマトを最初に食べたイタリア南部の人は貴重な果物リンゴと同列に考え、黄金のリンゴ Pnma ?  aro [ポマドーロ]と言ったのはトマトが黄金色である事を示している。後にPomodoro[ポモドーロ]に変化し、イタリア北部は、Tomata[トマータ]とメキシコのスペイン語なまりを用いている。イギリスは愛のリンゴ、love apple[ラヴ・アップル]から
Tomato[トマート]、アメリカは狼のリンゴから、Tomato[トメイト]、フランスは、愛のリンゴPomme ? amur[ポム・ダムール]後で、
Tomate[トマート]、ドイツは楽園のリンゴからTomate[トマーテ]と呼んだ。日本には、江戸時代に中国を経由して伝播した。唐柿、唐なす、
トマトの色彩から赤茄子、京都の御所の柿が実る季節から六月柿と呼び、また、赤い色が南方のサンゴに似ているというので、珊瑚珠なすと呼んでいた様子から判断するとトマトは赤色であったと思われる。
 ヨーロッパに伝えられたのは黄金色であることを考えるとその距離間のせいであろうか。トマトを伝えた中国では洋茄子や蕃茄 [ファンチャ]と呼ぶ。

Tomato Catchup [トマトケチャップ]
 トマト ケチャップを、Catchup, Ketchup,綴ることに不思議さを覚えないだろうか。ケチャップは、最も古いソースの一つで、その歴史もローマ時代にまでさかのぼる。ケチャップという呼び名は、材料を裏漉したソースすべてをケチャップと呼び、現在のトマトケチャップとは異なるものであった。1690年、中国は、魚や鶏肉料理のソースに、魚介類の酢付けや香辛料を塩水に漬け、ケチャップ(Ke−tsiap)という名のソースを作った。マレー半島が英国の植民地時代に、イギリスの船員が、このケチャップを英国に持ち帰る。英国でこのケチャップを作ろうとするが、香辛料などの関係でうまく作れない。シンガポールやマレー半島では、中国のKetsiapの綴りがKechapと間違えて伝えられ醤油に似た魚の醤をケチャップと呼んでいた。トマトは、以前からナス科の植物で、何らかの毒性があると信じられ食べられていなかった。トマトが登場するまでには、1790年まで待たなければならなかった。第三代アメリカ大統領、トーマス・ジョファソンが、トマトに毒がないと証明したことで普及した。こうして、ニューイングランド地方で、トマトが使用され、現在のトマトケチャップとなる。
 1876年、アメリカで工場生産され、ドイツ系のヘンリー・ハインツが、生産に乗り出し現在のように世界のテーブルソースとなった。
 トマトが日本で使用されるのは明治維新後、北海道開拓でアメリカ産のトマトを輸入し試験的に栽培したのが始まりである。
 一説には、札幌農学校のクラーク博士の指示で秋葉三治郎が始めたという。
 明治31年、愛知県の蟹江一太郎が栽培するトマトを用いてトマトソースを作ったのがカゴメの始まりである。

トマトピュレ
 フレッシュトマトの皮、種をはぶき裏ごししたもので、基本的には、トマトだけで作った濃厚なトマトジュースと考えてよく、スープ、パスタソースに使用する。

トマトペースト
 トマトペーストは、トマトを原料にカボチャやポテト、人参などの根菜類を裏ごし煮詰めたものである。場合によっては小麦粉を入れることもあると考えて良い。ブイヨンを加えて作る場合もある。魚介類、肉類の煮込み料理に使い、煮込み料理やトマトソースとして用いる。

トマトフォンジュ
 トマト、ニンニク、タマネギのみじん切りをオリーブオイルでソテーし、軽く煮詰めたもの。パスタ料理や魚介類料理に合う、
 さらに、このトマトフォンジュに、白ワインやハム、ベーコンを加えて煮込み裏ごしすると高級なトマトソースとなる。



 
0005「タバスコソースの話」  

 タバスコ[Tabasco]と呼ばれる激辛ソースは、トマトジュース、パスタ、サラダに使用するソースとして人気がある。そのルーツを探ってみよう。
 アメリカ、ルイジアナ州海岸沿いのケイジャンの地に、エイヴァリー島がある。Avery Island というこの地は、アメリカ最古の岩塩が産出する地域として有名で、タバスコソースが誕生した所として知られている。
 1848年、アメリカとメキシコの戦争から逃れるようにして、Edmund McIlhenny[エドモンド・マルキヘニー]という人物がエイヴァリー島に移住してきた。現地で、ある人から赤いカラシの種をもらい、このルイジアナのエイヴァリー島に移植した。その後、1861年、南北戦争が起こり、ルイジアナ州南部地域は、バンクス将軍「General Banks」によって占領されてしまった。
 この戦争のために、マルキヘニー氏は、他の地に移り住むことになる。数年後、戦争が終結となり、この地に帰ると唐辛子が真っ赤に咲き乱れていた。
 この赤いカラシを観て、マルキヘニー氏は、この地域に産出する岩塩とカラシに酢を加えた辛いソースを考案して、ケイジャンのタバスコソースとして売り出し成功したという。ちなみに、タバスコの名前の由来は、唐辛子の種を最初に持ち出したメキシコのタバスコ川の名を付けたことにある。
 また、タバスコソースの中に緑色をした辛さがタバスコの1/5程度のものがある。Tabasco・Jalapeno Sauce[タバスコ・ハラペーニョ ソース]という。



 
0006「再び魚醤について  

 魚を主体に塩、野菜、果物、香料を加え醗酵させて作るものが魚の醤油である。古代ギリシアや古代ローマ時代の調味料はリクァーメンやガルムと呼ぶ魚醤をベースにした。さらに、料理する食材に合わせてブドウ酒、蜂蜜、ハーブ、スパイス、ワイン酢、ビール、胡椒、油などを加えて料理のソースとした。
 塩はそれほど直接使用しなかったようである。
 APICIUS DE RE QUOQUINARIA[アピキュース古代ローマの料理書、ミュラ・ヨコタ・宣子:訳、1987年、三省堂]という本がある。
 それによると、現存するヨーロッパ最古の料理書がこのアピキュースの古代ギリシャと古代ローマの料理書であるとされている。
 また、850年頃の写本(羊皮紙)ヴェネデクト修道院(トゥールとフルダ)の書写があり、ヴァティカン図書館とアメリカ・ニューヨーク医学アカデミー図書館に2冊が現存する。さらに、印刷技術が発達する1498年以降様々な言語と国で出版され日本では先の通りとなっている。
 内容などを見ると雉の肉料理などにブイヨンの中にリクァーメン(ガルム)を加えて煮込む料理が紹介されている。
 様々な料理にリクァーメンを使用しこれが後の西洋料理におけるソースの原型となったと言われている。また、類似したアンチョビーソースやイタリア・ピエモンティ地方のバッレビアオスタ渓谷の胡桃とアンチョビー、バターで作るBagna Cauda[バーニャ・カウダ]など魚介類を使用したものがある。
 また、日本に伝来した発酵食品が東南アジアに伝えられ現在も魚醤はアジアの食文化として広く使用され日本にも輸入されている。
 魚醤の呼び名も様々である。
カンボジア、   Tuk trey [トックトレイ]、
ベトナム、    nuocmam  [ニョクマム]、
ラオス、     nam pa daek[ナムバーク]
タイ、      nam pla    [ナンプラー]
ミャンマー、   ngapi−gaun [ガピ・ガゥン]
バングラデシュ、 napi       [ナピ]
マレーシア、   belacan    [ブラチャン]
フィリピン、   patis      [パテイス]
ラオス、     pa daek    [パーディク]
インドネシア、  Terasi     [トラシ]
         Kecep Ikan [ケチャップ・イカン]
秋田県の「しょっつる」。



 
0007「アンチョビーソース」  

   Anchovy [アンチョビー]英語  
   Anchois [アンショワ] 仏語
   Acciuga [アッチウガ] イタリア語
 ヒシコイワシは体長10―12cmの頭、骨付きを仮塩漬けにした後で頭や骨を取り去りFilet[フィレ]の状態にして本漬けとする。フィレのまま、または、丸くロール状にしてビン、缶詰めとする。更に、ペースト状にしたものがソースです。語原はスペイン、バスク地方の魚を意味したAnchova[アンチョバ]から転じて出来た言葉といわれています。



 
0008「有名なソースの話」  

 フランス料理で肉や魚や野菜料理を引き立てるために作られるのがそれぞれの素材のエキスやブイヨンを取り、ワイン、酢、香味野菜を加えて作るのがソースで、最も重要な役目をするのである。
 その中で有名なソースの話しをしよう。

Sauce Bechamel[ソースベシャメル]
 ソース・ベシャメルはバターに小麦粉を加えルーブランを作り牛乳を加え煮込むソースである。このソースは17世紀に作られた。
 名前のベシャメルとは Louis XIV 「ルイ14世」の理財頭で大膳頭であったMarguis de Bechamel「バルキー ドゥ ベシャメル」侯爵の名前に由来する。
 その後、ルイ15世の王妃「マリー レクチンスカ」のために作られたパイ料理に使用されたのがソース・ベシャメルとして現在まで残っているソースである。
 この料理は、Bouchees a la Reine「ブーシュ ア ラ レーヌ」というパイ料理で、この場合のレーヌとは王妃を指す言葉である。
 パティ・ド・ブーシュウにトリフ、鶏肉、ソース・ベシャメルを詰めた料理である。

Sauce Mornay[ソースモルネー]
 ソースモルネーは、ソース・ベシャメルにパルメザンチーズを加え仕上げに生クリームと卵黄を合わたソースである。
 さて、このソースモルネーの名前の由来は、Henri IV「アンリ4世」1553―1610年、と関係がある。
 アンリ4世はフランス国王ブルボン王朝の創始者でベアルネー地方のブルボン家から最初のフランス国王となった人である。
 王様に代々仕えた貴族がPhilippe de Mornay[ヒリップ ドゥ モルネー]1549―1623年である。
 別名をDuplessis Mornay[ドゥフリーズ.モルネー]という。
 このモルネーに仕えた料理長が主人の名前をソース名とした。

Sauce Bearnaise[ソースベアルネーズ]
 フランスとスペインの国境に近い地域にBearn[ベアルヌ]地方がある。
 このベアルヌ地方の名はフランス料理に良く登場する名前である。
 特に有名なのは次の出来事による。1830年、フランス国王ルイ16世がパリーのサンジェルマンに宮殿を建てその披露宴が行われた。招待者の中にバスクのナパール国王アンリ6世がいた。
 当時アンリ6世は自分の料理人を引き連れお祝いの料理を作らせその中に登場したソースに「ベアルネーズ」があった。
 バターとレモンで作る温かい肉料理用のこのソースにルイ16世が大変歓ばれたことからこのソースが有名になり今日に伝えられている。
 また、料理に登場するベアルネーズという言葉はアンリ4世の場合が多いことを特記しておく。



 
0009「マヨネーズソース」  

 マヨネーズ ソースは、酢と油と卵黄、塩、胡椒から成り立つ誰でも知っているソースの代表である。
 酢と油の相反する性質のものが卵黄に含むレシチンの働きで、見事に乳化状態を起こしマヨネーズソースとなる。
 このソースを作るコツは、冷えすぎの卵は使用しないこと。理由は、卵黄の冷え過ぎは、レシチンの働きが鈍くマヨネーズの乳化作用ができにくいことにある。(15―18度Cを保ことが大切である)
 このマヨネーズが何時何処で作られマヨネーズという名前になったのであろうか。マヨネーズはスペインのミノルカ島で18世紀に作られた。
 1756年、フランスのルイ14世に仕えるリシュリュウ元帥[Armand duc de Richelieu(1696−1788)]が、スペイン領のバレアレス諸島のミノルカ島を奪取した。
 この時、リシュリュウ公爵が始めてこのソースに出合い作り方を記録した事が知られている。特に、この地域は、鶏卵の産出で有名であった。
 この時、ソース名は、ミノルカ島の町、または、港の名前のMahon[マオン]からマオンのソースと名付けられフランスに紹介された。
 その後、フランスの料理人によって、Mahonの形容詞女性で、Mahonaiseマオネーズと呼ばれた。
 アントナン、カレームは、このソースをCuisinier Parisien(1828年)の中で大変作り方が難しく高級なソースであることに加え、呼び名が二通りあると書いている。いわゆる、Manier[かきまぜる]という動詞から、Magnonnaise[マニョネーズ]と言われたようである。
 やがて、このソースは、アメリカに渡り、電動ミキサーの発達と共に工場生産されることになる。
 1912年、ドイツ系アメリカ人リチャード・ヘルマンがマンハッタンのデリカテッセンの店で小さなガラス製の入れ物で売り出し人気を呼び、サンドウィッチに使用され一般に普及した。



 
− 野菜編 −


0010「菜食主義者、ヴェジェタイヤン」  

 世界の様々な食文化の中には野菜を中心とした食生活を営む人々がいる。
 菜食主義者、Vegetalien[ヴェジェタリヤン]である。
 菜食には、宗教的戒律による菜食主義者とダイエットや美容のために菜食を行う人たちがいると言うことである。その中で、菜食者の多くは、宗教の関係から野菜中心の食生活と考えるのが普通である。インドを中心とした宗教のヒンズー教徒や仏教徒である。
 インドにはアヒンサーと言う非暴力の概念があり、宗教的指導とは動物を殺すという行為とそれを食べることを禁止している。
 こうした教えが菜食中心の食生活に発展し食様式が神への忠誠をあらわすという。
 特に、ヒンズー教の中で、ジャイナ教徒は宗教的な考え方を厳守して、野菜中心の食事をするといわれている。ただし、宗教の中には、野菜中心といっても多少の乳製品や卵を食する人々がいることも確かである。
 また、地域社会の習慣や経済的側面から異なる場合もあることを記しておく。

 ところで、平成7年11月、岐阜ルネッサンスホテルでノーベル賞受賞者を囲む「フォーラム21世紀の創造」が開催された。元ソ連大統領ミハエル・ゴルバチョフ氏とライザ夫人が参加した。また、このフォーラムには国連から大勢のお客様が出席された。
 お客様の中にインドの方で菜食主義者がおり、地方都市で開催さる事と宿泊するホテルの食事が果たしてベジダリアンのメニューを用意するのかが心配であると聞いていた。
 当方としてはこうした情報があったので、すべて、私が完全な菜食メニューで提供するように用意した。そして宿泊された3日間の朝食、昼食、晩食、晩餐会等について当時の開催事務局には連絡をしておいた。
 後日、大変感激をされていたようで、当時、現在よりそれほどインターネットが盛んではないが国際会議「21世紀フォーラム」の様子と岐阜県の文化的な事柄に当日の晩餐会や特にベジダリアンの食事の配慮などを世界に発信したと報告があった。インドから参加した本人としては他国に来ての食事は心配ごとでよほどうれしかったようだ。ここで、当時のメニューの一部を紹介する。

ノーベル賞受賞者を囲む“フォーラム二十一世紀への創造”

ベジダリアンの食事


Ratatouille nicoise
ラタトゥーユのニース風

Soupe aux Pois chiches
ガルバンゾーのスープ

Pot−au−chou
野菜のポット・オ・フ

Croquettes de mais
トウモロコシのコロッケ

Gnocchi a la nicoise
ニース風ニョッキ

Chou farci au riz
米入りロールキャベツ

Chou farci aux marrons et Champignons
栗とシャンピニョン入りのロールキャベツ

Aubergines a l indienn
茄子のインド風

Pomme de terre sautees aux epices
ポテトのソテースパイス風味

Curry de petits pois et carottes
人参とグリンピースのカレー

Salade d endives aux noix
アンディブとクルミのサラダ

Tarte a la rhubarbe
ルバーブのタルト

Couscous au chocolat
クスクスのチョコレート風味

Gateau de mais
コーンケーキ




 
0011「ポテトに関する考察  

 幼い頃、母親が作る好物のカレーの定番はポテトである。
 西洋料理、日本料理に使用されるポテトは何時、何処から日本に来たのだろうか。名前もポテトと呼ばれるようになるのは戦後のことで、戦前の日本海軍が「肉じゃが」が作られたように、ジャガイモとも呼ばれていた。
また、野菜として肉や魚料理、スープ、サラダ、子供たちが好きなフライドポテトやポテトチップにも使われている。
 ポテトを植物学的に分類するとナス科の植物で塊茎をつけるものとある。学名を、Solanum tuberosum[ソラヌス・トゥベロスム]という(カスバル・ボーアン(1560-1624)著「植物図表」による)。原産地は南米と中央アメリカのアンデスの山間地域である。
 この原種がヨーロッパに伝播するまでにはかなりの時間を要し、すでに現地人(インカ)により交配され人間の食べ物に成長していたといえる。
 さらに現代に至る過程ではポテトの歩んできた道は決して平凡ではなく厳しく様々な憶測の中で人々の食料としての道を一歩一歩確実に進んできた歴史が刻まれている。




 
0012「ポテトの変遷と呼び名  

 ポテトの原産地はインカ帝国アンデス山脈地域である。
 ポテトは、Pappa[パパ](スペイン語)と呼び、スペイン人によりヨーロッパに伝えられる。フランスでは、古くは塊茎がトリフに似ているのでCartofle[カルトゥフル]、Petite Truffe[ペティットテュルフ]と呼ばれていた。
 また、菊芋トピナンブールなどと呼ばれ、やがて、Pomme de terre[ポム・ド・テール]畑のリンゴとなる。
 イタリアでは、Tartufoli[タルトゥフォリー]、ドイツでは、Kartoffel[カルトッツフェル]と呼んだ。イギリスのpoteto[ポテト]は古い言葉のBattata[バタータ](スィートポテト)からポテトとなった。
 日本のジャガイモは伝播ルートや作付けから呼び名が付けられたようである。
 1600年、宣教師と共にバタビア(インドネシア・ジャカルタ)を経由し伝来した事で、初めジヤガタラ芋と呼び、やがて、ジャガイモとなった。
 また、別名の馬鈴薯は1700年の中国の「松渓県志」に馬鈴薯という文字があり、江戸中期の本草学者、小野蘭山(1729-1810)、が馬の鈴のイモと勘違いし名付けたという。この時の馬鈴薯は「アメリカホドイモ」を指している。



 
0013「ポテトの故郷インカ帝国の主食パパ  

 
ペルーは、南アメリカ北西部に位置する共和国である。
 また、世界最高の高地に栄えた古代文明インカ帝国、その王都クスコはペルーの東南部に位置する。11世紀〜13世紀には王都クスコを中心に太陽神信仰を基盤として栄えたインカ帝国である。この帝国はインカ道と呼ばれるアンデス山脈を結ぶ街道が他国との情報源とし文字を持たず縄の太さや結び目で数を表す独特の文明国家を築き上げた。
 15世紀から16世紀にはアンデス山脈周辺のコロンビア南部からチリ北部に至る周辺まで支配した。インカ帝国の主食はパパと呼ばれるポテトやトウモロコシで高地で栽培される数少ない食文化が人々の生きる術であった。
 パパはインカ帝国のケチュア語で塊茎の植物を意味しトリフのようであるといわれる食物である。パパは古代インカ帝国以前から栽培され数千年という歴史を要しているが豆粒大のイモから改良し大きくしてきた。
 さらに、イモ類は毒素を含む植物であり食べ物でとしては不向きでる事から冷凍乾燥をしてパンのように焼き、または、茹でて食べていた。
 パパ(ポテト)はペルーやチリ南部でも栽培されていたがやがて4000メートルの高地から低地へと伝播していく。
 1492年、コロンブスがアメリカを発見、ヨーロッパが大航海時代に突入した。
 コロンブスの影響から1532年、スペインのフランシスコ・ピサロ(豚飼育人)がインカ帝国を征服する。ピサロは、新大陸進出の中でわずか13丁の火縄銃と馬37頭に180人の兵隊でインカ皇帝アルタワルバのインカ帝国人口1千万と南北4000キロにおよぶ国土を制覇してしまうのである。以後、スパインは南アメリカの大開拓を始め、また、スペイン軍はインカ帝国の金銀財宝は言うに及ばず全ての産物をスペインに持ち帰ったのである。
 パパといわれるポテトもその一つであった。



 
0014「パパ、宮殿飾花から飢餓を救う作物へ  

 この珍しくも不思議な根菜は様々な呼び名が示すように伝播経由や当時の塊茎食物と同じ呼び方をされた経緯がある。
 ペルー語で塊茎を「チューバ」と呼びその影響からドイツ語は「タルトッフェル」、松露と同意語でポテトを表し後に「カルトッフェル」となる。
 また、「エルダッフェル」といい大地のリンゴという意味に変化する。
 イタリアではタルトッフェルの塊茎からパタタと呼ばれた後に、パタタはインディアンが呼び名とし、アイルランドに伝播した事でパタタがポテトに変化した。(アイルランド、イギリス)こうした歴史の狭間でポテトは品種改良がなされ今日に至っている。
 伝播の過程でイギリスが食料として使用したのに対しフランスは食物に使用するのが大変遅れた。理由は民衆の風潮にありポテトの塊茎に毒素があるというので食されなかった。ルイ14世はポテトに興味を持ち人々の注意を引くためにパパの花を宮廷晩餐会で洋服の胸の飾りに使用した。
 パパはフランス語でポム・ド・テール(畑のリンゴ)と言う。ルイ16世代も飢餓対策食料として王室の農場で栽培した。記録としてマリー・アントワネットがポム・ド・テールの花を髪飾りとしたという。また、食料普及と研究をアントワーヌ・オーギュスト・パルマンティェ(1737-1813)が行なった。パルマンティェのポテト研究が進み論文が完成した日が1789年7月14日のフランス革命当日であった事は有名な話。



 
0015「ポテトの種類  

May Queen[メークイン]
19世紀末、イギリスのチュルテンハム近郊のベンサムで栽培されていた。
日本には1917年(大正6年)北海道でイギリスから輸入したのが始まりである。
名前はヨーロッパの春の村祭をメーデーと呼び祭りで女王に選ばれた人が頭にポテトの花をつけたという。メーデーのクィーンでメークインである。
ポテトは細長くやや黄色に近い。粘りがあり煮崩れしない。

Irish Cobbler
[アイリッシュ・カブラー]男爵いも
1876年ごろ、北アメリカでアーリーローズという品種を栽培していた。
新種の発見者は、アイルランドからの移民の靴屋さんであることで別名をアイリッシュ・カブラー「アイルランドの靴屋さん」と呼ばれた。
1907年、川田龍吉男爵がイギリスから北海道函館のドック(船会社)に輸入した。
通称、川田男爵の名を取り男爵いもと呼ばれた。でんぷん質が多く美味である。

紅丸
昭和4年、北海道の羊蹄山近郊の農家が改良した高収量ポテトとして栽培したのが始まりである。でんぷん質が多いのでデンプン原料として普及した。

アイダホポテト
アメリカのアイダホ州とオレゴン州にまたがるオレアイダ地方で栽培している。
フライドポテト、ポテトチップに適しご存知のマクドナルドなどが使用している。

農家はポテトを花色で区別するようである。
白い花系
紅丸、農林1号、十勝こがね、北海50号、トヨシロ、恵庭、とうや、ニシユタ、デジマ、マチルダ、さやか、セトユタカ、エゾアカリ、ツニカ、ユキラシャ
薄い赤紫花系
男爵薯、アトランチック、コナフブキ、サクラフブキ、トヨアカリ、キタアカリ、ムサマル、アスタルテ、ユキジロ、スタークイーン、アーリースターチ、ノースチップ
濃い赤紫花系
レッドムーン、ユキジロ、花標津、インカレッド、プレバレント、トヨアカリ、ベニアカリ、ノースチップ
紫花系
ワセシロ、インカパープル、インカのめざめ、イエローシャーク、ユキジロ、メークイン、ジャガキッズパープル
青紫花系
アトランチック、ハツフブキ、ビホロ、エスペランサビオレータ



 
0016「書物に登場するポテト 1  

 ポテト、ジャガイモ、馬鈴薯に関する事柄は料理書以外にも様々な書物に書かれている。しかし、日本にジャガイモが伝来した年代は書物により様々で正確でない。
 根菜類としてはジャガイモより先にサツマイモが1597年、琉球(沖縄県)から渡来した。
 1598年、オランダ船が長崎にバタビアからの「じゃがたらいも」としてポルトガル人宣教師が日本に持ち込んだという説が最も多い。1598年はオランダが台湾島を占拠し日本との交易を求めた頃である。慶長年間の1596〜1614年にオランダ船が長崎に伝来した事は確かある。
 伝来の経由からオランダイモ、ジャガトライモ(ジャワ島のイモ)、ジャガタライモ(バタビアのイモ)が長崎に入りジャガイモとなった。
 日本伝来当初は、ジャガイモは珍奇な植物として鉢植や牛の飼料とした。
 1696年の「農業全書」(宮崎安貞)全10巻にサツマイモが登場するがジャガイモは掲載されていない。1836年、高野長英が「救荒二物考」を刊行した事からジャガイモ栽培が行なわれるようになる。1869年(明治2年)政府は北海道開拓を開設。
 1871年、東京、内藤新宿に農事試験場、三田に育種場を作り輸入種苗の試作を行う。
そのリスト「改定増補舶来穀菜要覧」の中にジャガイモが37種記載されている。
 この頃になると呼び名もジャガイモ、馬鈴薯、ポテトから栽培や収穫から二度芋、三度芋、主に東北、新潟、関東地域はオランダ語のアールド・アッペルやアイヌ語のアップラの影響でカンプラ、アンプラ、アブライモ、カンベライモ、カンバライモとも呼ばれていた。



 
0017「書物に登場するポテト 2  

 フランス、アントナン・カレーム(1784−1832)は、ロトシールド男爵家で仕事をしポテトを使用していた。
 カレームの著書COLLCTION A CAREME(1842年刊)Le Conservateorのポム・ド・テールという項目がそれである。
 このように、1800年代のフランスの料理書にポテト料理が多く登場する。
 ユルバン・デュボワ(1818-1901)La Cuisine Classique(1856)やCuisine de Tous lespays(1872)の中にもポテト料理が登場する。Puree de Pommes de terre a la Hollandaise[ピュレ・ド・ポム・ド・テール・ア・ラ・オランディーズ]、ポテトスープのオランダ風が登場する。オランダ産を使用している事でポテトが料理素材の一部である事を証明している。
 1902年、プロスペール・モンタニエ(1865−1948)のLa Grande Cuisine Illustree(プロスペール・サル)の共著。この本のポテト料理は106のレシピが網羅されている。
 1771年、フランス・ブザンソンアカデミーで、飢餓の時に使用する食料に関するコンペが行なわれアントワーヌ・オーギュスト・パルマンティェ(1737-1813)が最高位に輝いた。西洋料理では、ポテト料理にパルマンティェの名前が使われるようになる。
 Creme Parmentiere、クレーム・パルマンティェと言う人名をポテトスープに表している。パルマンティェがポテトの功労者として認知された事を示している。また、オードブル欄に、Pommes Georgette[ポム・ジョルジェット]とあるがオランダポテトを指している。
 さらに、ポテト料理にCromesquit[クロメスキ]というロシア風料理がある。クロケットの事でソーセージミートとポム・ドゥシェーズを豚の網油であるクレピネットで包んだ料理である。
 また、入れ物が料理名となるCassolettes di verses[カッソレット・ディ・ヴェルセ]が登場する。Pommes duchesse[ポム・デュシェス]をCassolette[カッソレット]に入れたものである。
 モンタニエはLarousse Gastronomique(1983年)を出版している。



 
0018「書物に登場するポテト 3  

 アントナン・カレームの愛弟子にアドルフ・デュグレレという料理長がいる。
 後にカフェ・アングレの料理長となったアドルフ・デュグレレは幾つかのポテト料理を考案している。たとえばPommes annaポム・アンナである。
 ポム・アンナには物語りがある。舞台はパリの有名レストランのカフェ・アングレである。
1802年の開業で初代料理長がユルバン・デュボワであった。
1866年頃、このレストランの常連客にパリ社交界で最も有名な女性がアンナ・デリヨンという高級娼婦がいた。当時のカフェ・アングレの料理長、アドルフ・デュグレレは、ジェームスロトシルト男爵家で仕事をした実績と技術が評判の料理長でアンナ・デリヨンの為にポテト料理を考案した。ポテトを丸く薄くカットしてキャセロールに丸くらせん状に重ね入れフレッシュバターを加えオーブンで焼く、ポム・アンナである。また、アンナの愛称がアネットと呼ばれていた。
 ポテトをジュリアンにカットしてソテーしpommes Annetteポム・アネットとした。デュグレレ料理長が考案したポテト料理は現在も続いている。



 
0019「書物に登場するポテト 4  

 
現代フランス料理が世界的な名声を得るには王侯貴族に仕えた大料理長たちの功績に加え、この国独特のガストロノミー(美食家)の存在がある。
 Brillat−Savarin[ブリア・サヴァラン](1755−1826)の著書にPhysiologie de gout「味覚の生理学」(1825)がある。日本では「美味礼賛」という名前で白水社版(関根秀雄訳)が出版されている。
 その中の植物界という項目に馬鈴薯が登場し、この植物からとれる澱粉を食物として使用すると人間の気質を和らげ、時には勇気さえ軟化させることがあるといっている。
 ALI−BAB[アリバブ]という人がいる。
 本名をHenri・Babinsky[アンリ・バビンスキー]フランスの医師で美食家である。Gastronomir Pratique[ガストロノミ・プラテック](1923年)にPotage Puree de Congre[ポタージュ・ピュレ・ド・コングレ]というカレー風味のスープにポテトを使用している。
 フランス料理はこうした料理人の先輩方の影響を受けた次の時代のシェフたちがポテト料理を継承して行く。
 Augustin・Escoffier[オーギュスト・エスコフィェ](1847−1935)の著書、Le Guide Culinaire[ギュド・キュリネール]がある。この書に58のポテト料理を載せている。
 この著書は世界の多くの料理人に影響を与え英語版や日本語版もある。いくつかを紹介する。

 Pommes a l anglaise[ポム・アラングレーズ]英国風ボイルポテトがある。通常魚料理のガルニチュールとして使用してきた。
 卵型のポテトを2つ割りにして魚料理に使用されたが最近、使用されないのは寂しい。

 pommes Chateau[ポム・シャトー]はフライやリゾレにする場合が多い。
 仏語で城を表し切り方に意味がある。カットの仕方はお城の城壁や城郭を上から覗いた形にする。櫛形や先を細く尖った形にカットするものではない。
 正式には切り口断面(両先端)が7−8角になるのが常識である。
 フランスのお城の城壁は櫛型や四角ではなく、また、先が尖ってはいない。
 お城の塔ではなく出っ張りや壁面でこれをポテトで現したものがシャトーである。

Pommes Pont−neuf[ポム・ポンヌフ]はセーヌ河の橋名が付いたポテト料理である。この橋付近でフライドポテトを販売した事からこの名がある。
 形は拍子木のようにカットする。これをフライにした、俗にフレンチポテトという。
 後にアメリカに紹介されポテトチップの誕生となる。
 アメリカ第3代大統領トーマス・ジェファーソン(1743−1826)が1700年代フランス大使として赴任した折にポム・ポンヌ(フレンチフライポテト)を知りとりことなりアメリカに紹介する。やがて、フレンチポテトが1853年ニューヨーク州の高級リゾート地サラトガ・スプリングスのムーレーク・ロッジというレストランで売り出される。
 あまりの忙しさに料理長のジョージ・クラムがポテトの切り方をスライスにしてしまう。これが大当たりしサラトガチップとなる。やがてポテトチップと名前が変り世界的なポテトとなるのである。



 
0020「書物に登場するポテト 5  

 
画家トゥールーズ・ロートレックの料理書でL‘Art de la Cuisine[ラール・ドラ・キジュイーヌ]がある。
 その中に、Pommes de terre frites soufflees[ポム・ド・テール・フリット・スフレ]がある。
 このポム・スフレはオランダ産のポテトを使用する。ポテトを3−4ミリ厚さの四角切りに面取りし水気をきり揚げるとある。揚げ油はオリーブオイルと牛のケンネ油、または豚油をミックスすると良いとある。
 エスコフィェの料理書にPommes a la Berrichonne[ポム・ベリショーヌ]は、小さなポテトをソテーしてフィーヌゼルブをかける。Berryともいう。
Pommes Dauphine[ポム・ドフィーヌ]とDauphinoise[ドフィノワーズ]がある。地域的には東はイタリア、西はラングドック、南はプロヴァンス、北はサヴォワに面した酪農地帯のポテト料理を指している。
 ポム・ドフィーヌはポテトピュレに卵黄、生クリーム、オリーブオイルを加え卵形に作り表面に卵黄をナッペするか、パン粉をかけて焼く料理法である。フィーヌとはフランスの王妃名である。
 次にポワロースープを紹介しよう。

Potage Creme Vichyssoise[ポタージュ・クレーム・ヴィシッソワーズ]である。1918年、ニューヨークのリッツ・カールトンホテルでサービスされたのが最初である。このホテルの料理長はルイ・ディアである。
 ルイ・ディア料理長はフランスの中部地域のヴィシー近郊が故郷である。彼は幼い頃、母親の作るポテトスープを食べていた。
 アメリカのホテルでシェフとなり母親の作ったスープを冷たくして提供するアイデアを考えメニューに取り入れた。これが評判となり今日では世界的なスープとなった。



 
0021「書物に登場するポテト 6  

 日本の作家や文化人の中にもポテトに関した事柄を書いている。
 多田鉄之助「食通ものしり読本」(新人物往来社)、辻静雄「フランス料理」(光生館)、山本直文「西洋食物史」(高柴田書店)、日高達太郎「ふらんす味覚と風土」(柴田書店)、ジャン・フランソワ・ルヴェル「美食の文化史」福永淑子・鈴木晶 訳(筑摩書店)、ジョルジュ・ブロン、ジェルメーヌ・ブロン「フランス料理の歴史」林富士夫、杉文子、松田照彦 訳(三洋出版貿易株式会社)などにパルマンテイが登場する。
 日本映画の大女優に高峰秀子がいる。
 彼女は多くのエッセーを書き食に関わる物が多い。中でも「台所のオーケストラ」(潮出版社)の中でフランス料理にふれている。ポム・アネットの作り方までかいている。
ポム・アネットはジャガイモを細切りにしてバターソテーしたものであると書いている。
 獅子文六は「私の食べ歩き」(ゆまにて出版)や「飲み食い書く」(角川書店)の中で著者がパリ生活で亡父の命日に精進料理を食べる事を思い立ち近くのレストランで野菜料理を注文しフレンチフライを食べたと書いている。
 角田房子「味に想う」(日本経済新聞社)の中にポム・フリーの事を書いている。
 井上宗の「船とワインと地中海」(TBSブリタニカ)の中でクィーン・エリザベス2世号の朝食にアメリカのアイダホ・ポテトのフライが豊富にあり、ディナーの「グリルラムチョップ」もポテトであったという。
 日本の喜劇界に古川緑波という役者がいた。
 中々の食通で著書もあり「ロッパ食談」(創元社)の中に帝国ホテルの朝食で食べたリヨネーズ・ポテトのことを書いている。日本のホテルでは以前より朝食のソーセージやベーコンの付け合せとしてリヨネーズ・ポテトをメニューに載せていた。
 日本映画の監督黒澤明は国際的である。その黒澤監督の師匠が山本嘉次郎で大変な食通であった。著書「日本三大洋食考」(昭文社出版部)や「洋食考」(するいの研究社)の中でポテトコロッケや料理人の修業でジャガイモの皮むきが大事であるいう。
 小島政二郎の「あまカラ」(六月社版)に荒畑寒村(1887−1981)ら、大正から昭和初期の政治家のジャガイモの話がある。その中で「ジャガイモと豚肉の煮付け」を監獄料理と呼んでいる。その意味はこの料理を楽隊の奏でる音が「ジヤガブタ・ジャガブタ」と聞こえることからまるで監獄の楽隊のようだと表現している。
 池田弥三郎の「私の食物誌」(河出書房)という本がある。
 この作家は料理に造詣が深く様々な食べ歩きの書物が多いのはご承知の通りである。この中でロシア代表的なスープ、ボルシチを中国のHAERBIN[ハルピン]で食べた思い出を書いている。ハルピンの冬は気温がマイナス40度cまで下がる地域である。
帝政ロシアや日本が支配した地域で現在でもロシア式中国西洋料理様式といった料理が多いようである。ボルシチのジャガイモが大きく当時の食事としては大変美味しかったと述べている。
 山本直文の「美味探求」(三笠書房)を調べてみるとボルシチに関した項目がある。
 本場ロシアの作り方で、材料は、家鴨、牛胸肉、塩豚腸詰、甜菜、サワークリームを使用するとある。その食べ方はスープとそば粉のパンをで食べるとある。ジャガイモについてはスイスの有名なチーズ、ラクレットの事にふれボイルポテトに溶かしたラクレットをつけて食べる様子を書いてある。さらに、ドイツ料理のジャガイモとリンゴのスープ、「ヒンメル・ウント・エルデ」の意味は天と地のスープと言っている。
 杉本久喜の「天皇の料理番」(読売新聞社)、主人公の秋沢篤蔵は当然タイトルの通り昭和天皇に使えた日本の大料理長、秋山徳蔵氏の物語であるがドイツのジヤガイモについて書いている。



 
0022「書物に登場するポテト 7  

 少し社会派的な料理の見方としては、開高健の「最後の晩餐」(文藝春秋版)は皆さんに読んでいただきたい本である。この作家は食文化を最も理解している数少ない方である。
 さらに社会派作家でもあり第二次世界大戦の最中のアウシュヴィッ収容所での出来事を鮮烈に書いている。ユダヤの人々がガス室送りなる傍でヒットラーの親衛隊仕官がポテトケーキとザワークラウトを食べている。
こうした戦争の悲惨なシーンを人間の愚かな出来事と嘆きおよそ食文化とは関わりのない悲しい事をタンタンと書いている。
 犬養道子「私のヨーロッパ」(新潮選書)では女性作家らしくスイスの農家の暮らしぶりとその家のパトリシアという娘が男の子と同様に育てられ逞しく生きる様子を紹介している。中に自家製の生クリームとフレッシュバターたっぷりのマッシュポテトを食べるシーンが巧みに書かれている。
 池波正太郎は様々な食に関する事柄を書物に出しているがその中の「むかしの味」(新潮
社版)に大正期の洋食屋、浅草の美登広の名物料理がフライ(魚か肉かは定かでない)とスパゲッテイにポテトサラダの盛り合わせであったという。
 小菅桂子「にっぽん洋食物語」(新潮社)、この本も大変面白い。
 その中に作家、玉川一郎の項目がある。
 大正9年頃、コロッケの唄が流行しコロッケという西洋料理が流行になった。
 西洋の食文化が日本人に取り入れられ当時、コロッケ1個の値段が5銭であった。その中身の90%がジャガイモであるという。
 大正12年の大震災後には一般家庭の惣菜として肉屋さんが揚げるポテトコロッケが繁盛した。昭和2年ごろ、銀座3丁目の「シヨウシ屋」のコロッケが人気であるという。
 小柳輝一「食べものと日本文化」(評言社)にビーフシチュウとコロッケにジャガイモを使用とある。
 渡辺淳一「わたしの食物史」(集英社)は、食と人生という観点から24の食材のエッセーを書いている。その1つがジャガイモの事で男爵イモとメークインの比較や画家のゴッホの絵「馬鈴薯を食いる人々」について述べている。
 納富則夫の「美味東西」(講談社)は、ドイツの主食はポテトであることやジャガイモの歴史的側面にふれている。
 澁澤龍彦「華やかな食物誌」(大和書房)にはジャガイモ、トマトがヨーロッパの食文化に伝わる様子を書いている。
 阿川弘之の「食味風々録」(新潮社)には明治34年初代舞鶴鎮府長官、東郷平八郎がイギリスで7年間留学した折にビーフシチュを食べた経験から日本海軍の食事に「肉じゃが」を作らせたエピソードが書いてある。
 現在、広島県呉市と舞鶴市が「肉じゃが」の元祖争いをしているのも面白い話である。
 国木田独歩が明治34年に「牛肉と馬鈴薯」という本を出している。
 秋山ちえ子「野菜の花」文京書房に出てくるのはジャガイモの花である。桧原村のジャガイモ畑の紫、白、ピンクの花の見事さを書いている。
 また、「北の家族」で有名な作家倉本聡から北海道富良野にジャガイモの花を見に来ませんかという便りが来たとある。
 まさにフランス宮廷でマリー・アントワネットがジャガイモの花を髪飾りとしたように一面ジャガイモの花畑の見事さが目に浮かぶようである。
 伊丹十三・訳マーナ・デイヴィス著「ポテト・ブック」にもポテト料理が豊富。
 ベルトルト・ラウファー、福屋正修 訳「ジャガイモ伝播考」には学術的な観点から豊富なジャガイモに関した事柄が掲載されている。

 ポテトは多様性のある野菜であることは間違いない。スープ、ガルニチュール、フライ、ソテー、ボイル、グリル、ヴァプール、ピュレ、また、グラタン、シチュ、サラダ、菓子など様々である。
 こうしたポテトを料理素材として使用した歴史は,それぞれの地域や民族、国柄により様々な料理として今日に継承されている。中でも高級料理として扱ったのはフランスである。その種類の豊富さは他に類を見ないのではないかと思う。一方、ドイツ、ハンガリー、ロシア、アメリカ、イギリス、日本などの料理は庶民的な使われ方であるといえる。



 
0023「トマトの不思議  

 トマトは、大航海時代の新大陸発見による新しい食べ物として南米からヨーロッパの食文化の中に様々な形で登場する。世界で野生種のトマトは9種類ある。
 一つはガラパゴス諸島、残りはペルーのアンデス山脈の標高1000メートル地域に野生トマトが自生している。その内、L.チレンセという種類のトマトは有毒で食べられない。花が黄色で完熟でも果実は緑色の茎が細くミニトマト位である。
 また、比較的乾燥地に自生するケラシフォルメというトマトは糖度が6度という甘さがあり食べられる。このトマトが後の栽培種トマトの祖先である。
 アンデス山脈の高地4000メートル地域がジャガイモ、3000メートルがトウモロコシ、
コカ、2000メートルにサツマイモ、唐辛子、1000メートルがキャッサバ、トマトが栽培地である。古代に自生していたトマトが低い地域で栽培されるようになり毒素がなくなり自生種から栽培種に変化してきた。
 こうした新大陸の食物は、コロンブス以降、スペイン人のエルナン・コルテス(1485−1547)やフランシスコ・ピサロ(1470−1541)たちの征服者(コルキスタドール)たちによって新大陸の作物としてヨーロッパにもたらされた。
 そして、ヨーロッパでは伝播経路により様々な食文化に関わり今日のトマトを作り上げてきた経緯がある。

トマトはナス科の植物
 トマトはナス科ソラナケアエに属し、学名をソラヌム・リュコペルシクムという。
 ギリシャ語でLycopersicum[リコペルシクム]といい。Lycos[リコ]は狼を指し、persicom[ペルシコム]は桃の意味がある。
 狼の桃という意味の野菜はポテト、茄子、ピーマン、唐辛子、タバコなどの仲間で多年生の植物である。原産地は南米のペルー、ボリビア、エクアドルのアンデス山岳地帯である。



 
0024「トマトの語源  

 古いコルキスタドールの記録にトマトをXitomate[シトマテ]とある。
 また、メキシコ語にTomatl[トマトゥル]という薄皮に包まれた球形の果実がある。これは乾燥させ唐辛子と混せすり潰しソース状にして使用する。
 17世紀、メキシコのナワテル族は食用ホホズキを栽培し呼び名をTomate[トマーテ]と呼んでいた。また、アズティック文明のZitomatoに由来するメキシコ語Tomatl[トマトゥル]、この二つがトマトの語源説である。
 また、ヨーロッパに渡った過程で形や色彩に加え伝播経路や宗教的側面に寄る願望が込められ様々な呼び名が付けられた。
 最初にスペイン人がペルーからトマトをイタリアへ伝えた。
 当初、スペイン人はトマトを黄金のリンゴPoma Peruvianaと呼んだ。
 トマトを最初に食べたイタリア南部の人は貴重な果物、リンゴと同列に考え、黄金のリンゴ Pnma ? aro [ポマドーロ]と言ったが、トマトが黄金色である事を示している。
後にPomodoro[ポモドーロ]に変化し、イタリア北部は、Tomata[トマータ]とメキシコのスペイン語なまりを用いている。
 イギリスは愛のリンゴ、love apple[ラヴ・アップル]からTomato[トマート]、アメリカは狼のリンゴから、Tomato[トメイト]、フランスは、愛のリンゴPomme ? amur[ポム・ダムール]、後でTomate[トマート]、ドイツは楽園のリンゴからTomate[トマーテ]と呼んだ。
 日本は江戸時代に中国を経由して伝播した事で唐柿、唐なす、トマトの色彩から赤茄子、京都の御所の柿が実る季節から六月柿と呼び、また、赤い色が南方のサンゴに似ているというので、珊瑚珠なすと呼んでいた様子から判断するとトマトは赤色であったと思われる。
ヨーロッパに伝えられたのは黄金色であることを考えるとその距離間のせいであろうか。
トマトを伝えた中国では洋茄子や蕃茄 [ファンチャ]と呼ぶ。



 
0025「トマトの種類  

 トマトの色彩は赤色系、桃色系、黄色系に分類され改良型により形や種類も様々である。
 明治末期にアメリカからスパークス・アーリアナ種、やポンテローザ種などを輸入し日本の改良種を栽培してきた。その中でアリーナ系から桃色、中果、中生のグロープ系に、さらに、ファスト系や桃太郎などに発展する。
 現在のトマトは、完熟型の桃色系トマトで糖度9.2という桃太郎、ファストアップ(糖度8.2)がある。ファースト系は先がとがったハウス作りで冬季に出回るものである。
 加工トマトとして、ジュースやケチャップ、ペースト、ピューレの材料となる赤色丸玉トマト、イエローキャロル、ミニキャロル、チェリー、ペアーというミニトマトなど様々である。トマトの本場イタリア系では、サンマルツアーノ種がある。
 細長く水分が少なく甘みと酸味のバランスが良いことからソース用に適している。
 ポモドリー二種は形は丸く小型で乾燥トマトに適し、ローマ種は元々アメリカ産の改良で水分が多く皮が薄く生食やサラダ用に良い。ピッツア用のソースにはシチリア・パッキーノ村産ミニトマト、甘みが強いものが良いといわれている。



 
0026「アンデスを出たトマトが世界を回る  

 ここでトマトがどのよに世界に紹介されてきたかを考えてみよう。
 南米大陸の西部を南北に縦断する大山脈地帯がAndes[アンデス]である。
 紀元前5000年、アンデス・テワカン地域の高地において先住民はトウモロコシ栽培が行なわれていた。
 紀元前2000年頃、南米中央地域、グァテマラ、メキシコ南部、ユカタン半島、ホンジュラス北南部、ベリーズ、エルサルバドルにマヤ文明が築かれ16世紀まで続く、マヤ文明は高度の技術を持ち人力と石器だけで石造りの神殿を謙造し、また、天文学、数学、暦学が発達した文明であった。
 この地域の人々の主食はトウモロコシで、また、自然に自生するジャガイモ、トマトを改良し栽培してきた。さらに、現在のチョコレート(カカオ)やガム(サポディラの樹液から採集)もすでに食文化として取り入れていた。こうした地域の先住民が高地から中央アメリカやメキシコに移住することで作物の種子も持ち出され栽培されるようになる。1000年ごろにはアメリカインディオがトマトを栽培するようになる(アステスカ文明)。



 
0027「スペイン人が持出したアンデスの作物  

 1524年、スペイン人征服者、ペドロ・デ・アルヴァラードがこのマヤ文明を崩壊させる。また、スペイン人による南米征服が大々的にはじまっており、1521年、スペイン人のコルテスがメキシコを占拠し、1533年に高度な文明を要した古代インカ帝国は征服され滅亡する。そのことによりトマト、トウモロコシ、ポテト、唐辛子(ピーマン)タバコなどはヨーロッパに伝播し知られるようになる。
 トマトは、スペイン人に受け入れられた事でトマトの旅が始まるのである。
 一般的には1550年ごろ、スペイン人がイタリアにトマトを伝えたといわれている。
 1533年、イタリア・フィレンッエのカトリーヌ・ド・メディチがフランス国王アンリ2世と結婚した。
 1537年、メディチ家の当主コジモ1世(1519-1574)は植物園で様々な植物を栽培、やがて、この植物園に新大陸のトマトも仲間入りする。
 トマトは、当初、amatula[アマトゥーラ]と呼ばれていた。こうしてトマトがフランスに渡る。
 イタリア・ジェノバ生まれのクリストファ・コロンブス(1446−1506)がスペインのイザベラ1世の援助でアジアの香辛料を発見する目的で大航海へ探検に乗り出し4回の航海で新大陸を発見しトマトを中心とした新しい野菜をヨーロッパにもたらす。
 イタリアで栽培されたトマトは17世紀末、オランダが日本に観賞用として伝えた。
 1668年、徳川四代将軍家綱のお抱え絵師、狩野探幽(1602−1674年)の草花写生図巻の「唐なすび」はカボチャトマトである。
 1783年、アメリカ第3代大統領トマス・ジェファーソンの影響で普及し、1835年のボストンの市場で販売されていた。
 ポンテローザ(イギリス産でピンク系)、クリムソン、テーブル・クィーン、ベスト・オブ・オール等の種類があった。
 やがて、明治31年、愛知県の蟹江一太郎が栽培する。そのトマトを用いてトマトソースを作ったのがカゴメの始まりである。
 貝原益軒(1602-1674年)の大和本草の雑草類に唐柿として紹介している。
 食材としてのトマトは明治維新後、北海道開拓でアメリカ産のトマトを輸入し試験的に栽培したのが始まりで、一説には、札幌農学校のクラーク博士の指示で秋葉三治郎だといわれている。
 明治時代の書物「有用植物図説」田中芳男著や「西洋野菜の作り方と食べ方」山田貞康著にトマトが登場するが色彩が真っ赤であるが味が良いとはなくホホズキの味のようだと書いる。
 18世紀に入りトマトが品種改良されイタリア・シチリア地方で料理用として栽培された。
 明治36年、「職道楽」村井弦齋著が春の巻、夏の巻、秋の巻、冬の巻として発刊された。物語風の中にそれぞれ食べ物の作り方を書いている。
 その夏の巻に赤茄子飯(トマト飯)の作り方が掲載されているのですでに日本でトマトが使用されていたことを示す。
 大正4年、「美味求真」木下謙次郎著にもトマトが登場している。
 18世紀以降にエジプトにもトマトが伝播するがオスマントルコの影響でトマトソースとして使用したと「美味しいアラビアンナイト」吉村作治著にある。



 
0028「トマトを使ったヨーロッパの料理  

 さて、ヨーロッパの中でもフランス料理の世界では王侯貴族の下で仕事をしていた料理人たちが一般大衆の料理をつくるようになると、お客さまに勧めるメニュー内容にイタリアの影響から珍しい野菜であるトマトを使用することで人気を得るようになる。
 1786年パリ、Trois Freres Provencaux[トロワ・フレールプロヴェンソー]というレストランが開店、南フランス料理の Bouillabaisse a laMarseillaise[ブイヤベーズ]を売り出し繁盛する。
 当然、オリーヴオイル、ニンニク、サフラン、トマト、新鮮な魚介類の料理が当時のパリで評判となったという。この当時一般的でないトマトを使用した事が味を引き立てたようである。
 1842年のアントナーン・カレーム著 Livre de Tous les Menagesの中でトマトを愛のリンゴと紹介している。
 1872年、ユルバン・デュボワ著、Tous les Paysという料理本に、
  Tomates au gratin[トマート・オ・グラタン]、
  Omelette aux Provencale[オムレッ・オ・プロバンサル]、
  Tomates farcies a la Turque[トマート・アラ・トルキュ]
などトマト料理を紹介している。
 フランス料理にトマトが定着している様子が分かる。 
 1923年、エスコフィエがle livre des Menus、1934年、Ma Cuisineを刊行している。
 その中にVloute de Tomates[ヴルテェ・ド・トマート]トマトスープがある。同じように澄んだスープ、Consomme Helene[コンソメ・エレーヌ]と人名を付け、ギリシャ時代のトロヤ戦争時のスパルタの妻がスープ名になっている。赤いトマトに卵のロワイヤルをコンソメの浮き身にした。
エスコフイェの料理書 l‘Aide− Memoire(1919年)にはトマトを使用した料理が数多く掲載されている。

 このエスコフイェの料理書を見るとトマトの伝播経路に沿った国や地域に加えて王侯貴族の名前を付けた料理に当時珍しいトマトを使用している事がよく分かる。
 先ず、トマトを最初にヨーロッパに伝えたスペインのCastillane[カスティーヤン]という名が付いたトルネード・ステーキがある。 
 スペインのマドリッド地域であるカスティーヤンという肉料理にソースとしてトマトフォンジュを付け合せる。次に「大きなトマト小さな国境」講談社の中に次のように書いてある。

 スペインを代表するトマトスープにガスパーチョがある。
 この国ではスープをソパというが本来の意味は液体に漬たしたパンを表す言葉であった。
 スープという言葉も様々に変化し、古代ドイツ語のSufan[ズファン]、中世代のSuppa[ズッパ]、スペイン語のSopa[ソパ]、フランスのSoupe[スープ]、英語でSoup[スープ]などである。
 さて、スペインのガスパーチョというスープの話にもどるが、トマト、ニンニク、パプリカ、玉ねぎ、パン、オリーブオイルなどすべて生を用いる。
トマトが入るので食べやすく飲みやすいスープである。

 次にトマトは南イタリアで栽培され食用となった。イタリアはトマトを最も早い時期から食した国らしく様々な地域でトマトを使用している。
 スープは、Minestra[ミネストラ]というほどミラノはトマト料理が多い。
 だから、Milanaise[ミラネーズ]ミラノ風やNapolitain[ナポリタン]ナポリ風など魚介類、肉料理、パスタ、ピッツアにはトマトが無ければ始まらない。
 この地域よりかなり遅れてトマトを使用したのが北イタリアの穀倉地帯である。
 Piemontaise[ピエモンテーズ]ピエモンテ風の米料理、スープ、リゾットにまでトマトが使われている。
 こうしてイタリア料理はアンティパストからスープ、パスタ、ピッツア、リゾット、肉料理、魚介料理までトマトを使用し現代のイタリア料理となる。
 さらに、最初にトマトを栽培したメキシコのPoulet saute a la Mexicaine[メキシカン]メキシコ風の鶏肉のソテーがある。
 トマトソース風味の仔牛のジュを使用する。
 イタリアからトマトが伝えられたフランス、中でも南仏料理でNiicoise[ニソワーズ]ニース風と名前が付けば、魚介類料理やサラダにはフレッシュトマトやトマトフォンジュ、または、トマトソースを使用する事が多い。
 当然、南仏で有名な野菜料理ラタターユは必ずトマトを使用する。
 また、Provencale[プロヴェンサール]プロヴァンス風は地中海地域の料理だからトマトや香草に加えオリーブ、アンチョビィなどが入る。
 Marseillaise[マルセイエーズ]といえば、有名な南仏の港町で魚介類料理が多い。特に、ブイヤベーズ・マルセイユ風は有名である。
 オリーヴオイル、サフラン、ニンニク、トマトは欠かせない。フランス料理には戦争を通して出来た料理もある。
 Poulet saute Marengo[マレンゴ]は鶏肉のマレンゴ風という鶏肉と卵を揚げた料理である。ナポレオンが北イタリア・マレンゴ村でオーストリア軍との戦い中で戦いの場で調達できたのがトマト、鶏卵、鶏肉であった。
 鶏肉をソテーしトマトで煮込み、鶏卵をオイルで揚げウーフマレンゴと名づけ戦場料理を作った。当然、ナポレオンが日常的に飲んでいたワインのシャンベルタンを使用したと想像できる。その味はトマトソースを使用することで完成した。
 スイスでのトマト使用はTyrolienne[チロリエーヌ]チロル風という名の料理である。また、ポルトガル風のPortgaise[ポルトゲーズ]やGrecque[グレック]鶏料理のギリシャ風などトマトを使用する。こうしたトマトの伝播による料理名の他に人名が料理名となったものがある。
 古くは、Medicis[メディシス]という名前の料理がある。
 ご存知の通り、イタリア・フレンッエからフランス国王アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メデイシスを指している。この料理には、アンリ2世の出身地のソース・ベアルネーズにトマトフォンジュを加えるものである。また、Timbales Medicisでは、トリフ、フアグラ、牛の舌、などにトマトを加えている。



 
0029「ヴェルサイユ宮殿の料理人  

 さて、王侯貴族の料理を作ると言う事で代表される宮殿といえば、ヴエルサイユ宮殿である。ここでは数多くの料理人たちが働いていた記録がある。国王ルイ14世代のヴェルサイ宮殿は料理人324人が王様の食事や宮殿でおこなわれる晩餐会に料理を作っていた。
 ルイ16世代は386人の料理人がいた。ヴエルサイユ宮殿だけでなく他の宮殿においても歴代の国王、王妃、愛妾や貴族たちのために料理人は当時の珍しい食材を使用し様々な料理を創造した。こうして連日のように世界中の食材を集め食事していたのだからフランス革命が起きたのも不思議ではない。また、王妃、愛妾といわれる女性名の料理が数多くあるのは当時の珍しい食材を使用することでこうした女性が常に社交界で名前が出ているということにもなるのである。
 例えば、Pompadour[ポンパドゥール]とはフランス国王ルイ15世の愛妾で、フランス料理によく登場する。Filet de sole Pompadourには sauce bearnaise tomatesを使用する等。




 
0030「キャベツの考察 

 オランダ菜、サンネン菜、かん甘らん藍、玉菜とはキャベツの事である。
 巻心菜[チェンシンツァイ](中)、Cabbage[キャベッジ](英)、Chou[シュ](仏)、Cavolo[カーボロ](伊)、Kraut[クラウト](独)。
 植物学的には、アブラナ科の1・2年草である。
 原産地は、ヨーロッパ地中海や大西洋沿岸に自生する植物で結球しない野生種のキャベツであった。紀元前600年、ケルト人が野生種のキャベツ、ケールを栽培化したのが最初である。古代ギリシア時代は、打撲傷の湿布薬としてボイルして患部に張る治療を行った。ローマ時代からキャベツは食用となった。
 栽培種の中から葉が結球するものが出たようで1000年ほど前にキャベツは玉状になったと記録がある。その後、南フランスからオランダに伝わり16世紀にカナダ、17世紀にアメリカに伝播する。ヨーロッパの大航海時代の野菜といえるキャベツは、江戸時代の宝永年間(1704-1711年)にオランダ人が長崎に伝えた。明治初年、北海道開拓の野菜として栽培され、各地に普及した。
 こうして、日本ではオランダ菜と言う名で紹介され始めは観賞用として栽培された。
 当時のキャベツはケール・コラードと呼ばれる葉キャベツであった。
 1708年の大和本草にはオランダ菜、三年菜と出ている。